創薬ベンチャー企業が破産申請、負債総額15億円…コロナ治療薬を福岡県と共同開発(24年2月16日 読売新聞オンライン無料版)

 

<私見:

久留米は若くして「からくり儀右衛門」と呼ばれ、後に東芝の創業者になった田中重久の故郷。いまも、高校ロボコンでは久留米高専が毎年、大活躍   ■>

 

 

記事

 

(1)新型コロナウイルス治療薬の研究開発に取り組んでいた福岡県久留米市の創薬ベンチャー企業「ボナック」が、福岡地裁久留米支部に破産を申請したことが14日、分かった。

申請は9日付。東京商工リサーチ福岡支社によると、負債総額は約15億円。

 

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(2)(東京商工リサーチ福岡支社や福岡県など)

同社は2010年に設立され、県と同市などが出資する第3セクター「久留米リサーチ・パーク」に本社と研究開発拠点を開設。

 

(3)「ウイルスの増殖抑制治療薬「核酸医薬」の研究開発」

1)20年から県と共同で、新型コロナウイルスの遺伝子に直接作用し、ウイルスの増殖を抑える治療薬「核酸医薬」の研究開発を進めてきた。

2)同年12月

 国立研究開発法人「日本医療研究開発機構」(東京)の医療研究開発革新基盤創成事業に採択され、治療薬の開発費として50億円の支援を受けることが決まった。

3)22年5月の同機構の中間評価で「抗ウイルス効果をほとんど示さないことが確認された。医薬品としての開発は現状では困難」との結果が示され、開発の継続は不可とされた。

 

(4)ピークだった18年12月期の売上高は約5億7100万円だったが、その後は大幅な減収が続き、22年12月期は約10億7800万円の赤字を計上。

昨年12月末で久留米リサーチ・パークから退去していた。

(県新産業振興課)

「新型コロナ治療薬の開発は革新的な取り組みだっただけに大変残念だ。創薬には多額の開発費が必要で、これからも挑戦するベンチャー企業を支援していきたい」としている。

 

■田中久重ものがたり  東芝未来科学館

 

日本の近代技術史に名を刻む天才機械技術者「からくり儀右衛門」とは、東芝の創業者田中久重のこと。
彼のユーモアとアイディア、いたずら心は、奇天烈なモノから時代の最先端の製品までつくりあげました。
日本の近代の幕開けの時代、一生涯、あたらしいモノづくりへチャレンジし続けた発明家・技術者の生き方に迫ります。

 

  •     1話 探求 Inquiry
  •     2話 好奇 Curiosity
  •     3話 鉱業 Performance
  •     4話 大成 Achievement
  •     5話 革新 Innovation
  •     6話 創業 Fundation

 

●1話 探求Inquiry

 

★儀右衛門は失敗を恐れることなく、チャレンジし続けた!

 

写真 田中久重夫妻: 久留米市教育委員会所蔵

 

わずか九歳にして開かずの硯箱をつくった久重。"発明の虫"は成長とともに大きくなり・・・。
ゼンマイ仕掛けのからくり人形づくりから身を起こし、和時計の最高傑作、蒸気機関、電話機までも開発します。
「からくり儀右衛門」は人を喜ばせることに何よりも生甲斐を感じ、人々の必要としているもの、生活を豊かにするものを考え、そのアイディアを次々と形にしていきました。

からくり儀右衛門はこんなモノをつくっていた!

1807年(文化4年)

開かずの硯箱

1820年代

弓曳童子

1820年代

童子盃台

1834年(天保5年)

懐中燭台

1837年(天保8年)

無尽灯

1850年(嘉永3年)

須弥山儀

1851年(嘉永4年)

万年時計〔万年自鳴鐘〕

1852年(嘉永5年)

蒸気船〔スクリュー式〕の雛形

1855年(安政2年)

蒸気車・蒸気船〔外輪式〕の雛形

1863年(文久3年)

アームストロング砲

1871年(明治4年)

無鍵の錠

1878年(明治11年)

電話機〔試作〕

その他

製氷機、ネジ切りゲージ、自転車、精米機、写真機、昇水機、改良かまど、旋盤楕円削り機、煙草切機、醤油搾取機械、種油搾取機、報時機など

 

●2話 好奇Curiosity

 

★べっこう細工師だった父から譲り受けた大切なもの。

 

写真 田中久重生誕地の石碑

 

田中久重は、江戸末期の寛政11年(1799年)9月18日、筑後国久留米(現・福岡県久留米市)のべっこう細工師・田中弥右衛門の長男として生まれました。
「からくり儀右衛門」の異名のとおり、一生涯を通じて発明創造に身をささげ、日本の近代科学技術史に名を刻む天才機械技術者として語り継がれています。
べっこう細工は、精緻な金属細工が施される工芸。
久重は、その高度な技能、手業を目の当たりにしながら、幼い頃から、創作の何たるかを知らず知らずのうちに身につけていたのです。

 

★創意工夫が人々を驚かせ、喜ばせる術であることを知った。

 

写真 久重が幼少の頃遊んだという五穀神社

 

文化4年(1807年)、数えにして九歳のときのことです。「これ、開けてみ?」-自分がつくった硯箱を開けるよう寺子屋の仲間に促す久重少年。何の変哲もない硯箱であったが、誰一人として蓋を開けることができませんでした。
"発明の虫"誕生のエピソードとして語り継がれる"開かずの硯箱"です。みんなが腕を組み唸る姿を見て久重少年は微笑みました。常にまわりの人々を仰天させる小さないたずら心は、彼がやがて進む道を拓くエネルギーとして、次第に成長していきました。

 

★幼い久重が目にした"からくり"は壮大な奇術に思えた。

 

写真 JR久留米駅前にある「からくり太鼓時計」

 

久重が生まれ育った幕末期、庶民の娯楽として注目をあびていた"からくり人形"。

例祭などで、からくり興行師による人形が披露されると、集まった老若男女が感嘆します。それは想像のつかない奇術のように、幼い久重を魅了したのでした。
幕末には『機巧図彙』(からくりずい)という手本書も出版されました。人々に驚きと感動、喜びを与える"からくり"に心を打たれ、傾倒していく久重。朝から晩まで、小刀を手に図案とにらめっこ。少年は睡眠時間を惜しんで創意に燃えました。明治開国以降の近代工業化に貢献する発明家の基礎は、この頃に固められたのでしょう。

 

★家業を拒絶してまでも、"からくり"で生きる道を決意。

 

写真 久留米市・五穀神社にある「田中久重翁」の像

 

「私は発明工夫をもって天下に名を揚げたいと思います。家職は弟に継がせてください」
父に訴える久重の気持ちは揺るぎないものでした。家職を捨ててまで"からくり"とともに生きる決意をした久重に、意外な人物から「お知恵拝借」の要請が舞い込むことになります・・・。
田中久重、数えにして十五歳。海外では、フランス皇帝・ナポレオンが勢力を弱めつつあった時代です。久重の名を世に広める立役者となる、意外な人物とは・・・。

 

●3話 興行Performance

 

★久重少年のアイディアが、久留米の伝統文化を育てた。

 

写真 久留米かすり:(財)久留米地域地場産業振興センター所蔵

 

十代半ばにして、からくり発明家としての才能を町中に広めた久重少年。
その、ユーモアたっぷりのアイディアと探究心に魅せられた一人が、"久留米かすり"の創始者・井上伝(いのうえでん)でした。
「定番のかすりを素材とする工芸だからこそ、今までにない模様で差をつけたい」
そう切望する彼女に応え、久重は、従来の十字模様やあられ模様ではなく、花や鳥の美しい模様を織り上げました。
久留米の文化発展・継承にも一役買った久重少年は、いつしか"からくり儀右衛門"と称され、人々に親しまれるようになっていきました。

 

★からくり興行師・田中久重が、人々の驚きと感心を一身に集めた。

 

写真 弓曳童子:久留米市教育委員会所蔵

 

二十代の久重は、からくり興行師として大坂・京都・江戸などを行脚しました。
水力や重力、空気圧など、様々な力を利用した"からくり人形"が、彼の十八番。
童子盃台、文字書き人形、弓曳童子など、行く先々の人々をおおいに驚かせ、楽しませたのです。

 

★からくり興行から実用品の製作・販売を始める。

 

写真 懐中燭台:東芝未来科学館所蔵

 

天保時代(1830年~)に入り、各地で藩政改革が行われるようになると、からくり興行も難しくなってきました。そこで久重は実用品の製作・販売を始めるために、天保8年(1834年)に大阪に移り住むことにしました。
そこで売り出し、注目を集めたのが、真鍮製の"懐中燭台"です。旅人などに重宝されました。
天保8年(1837年)2月19日、大塩平八郎の乱(※1)が勃発。一面焼け野原と化した逆境の中でも、久重は、さらに新たな発明に取り組んでいきました。

(※1大坂町奉行所元与力、大塩平八郎が、「救民」を掲げて挙兵した一揆事件。)

 

★逆境でも発明への情熱は衰えない。「無尽灯」を発明し、便利さを人々へ。

 

写真 無尽灯:佐賀県立博物館(中央と右)、東芝未来科学館(左)所蔵

 

「いつまでも消えない灯り」と、商人を中心に大人気を博した"無尽灯"が発明されたのも、ちょうどその頃です。
空気の圧力を利用し、菜種油が管をつたって灯心に昇る-その仕掛けは、長時間安定した灯りを供給し、商売や生活水準の向上に一役買ったのでした。
「夜の帳簿つけに便利だ」という商人をはじめ、人々の役に立ち、かつあたらしいモノをつくり続ける"という彼のポリシーを、名実ともに世に知らしめたのです。

 

★久重のいたずら心をくすぐる舶来品"西洋時計"

 

目につくものは、何でも発明に結び付けてしまう"発明の虫"は、南蛮貿易によってもたらされた"西洋時計"に興味を示しました。
自らの興味のために、西洋の天文・数理を学ぶ決意を新たにした久重。
三両あれば一年暮らせると言われたその時代に、五十両の大金を握り締め、"天文暦学の総本山"京都梅小路・土御門家(つちみかどけ)の門戸を叩くことを決意します。
弘化4年(1847年)、田中久重数えにして四十九歳。
鎖国の時代も終盤を迎え、西洋の文化の足音が、日本にも確実に近づいていました。

 

●4話 大成Achievement

 

★天文家の学識と技術者の腕を生かし、時計の新たな価値観を築く。

 

写真 須弥山儀:時計の大橋所有・セイコー時計資料館へ寄託

 

天文家としての学識を備え、最も優れた職人のみに与えられる「近江大掾」(おうみだいじょう)の称号を得た久重は、なおも向学心を磨きます。
齢五十を過ぎた嘉永3年(1850年)、当時の時計の概念を根底から覆したといわれる和時計・須弥山儀(しゅみせんぎ)を完成させます。須弥山儀は天動説に即し、仏教の宇宙観をひとつの時計の中で見事に表現した名品です。
またこの頃、京都の蘭学者・広瀬元恭(ひろせげんきょう)の「時習堂」(じしゅうどう)に入門。医学や物理学、化学、兵学、砲術などを吸収しました。

 

★卓越した技術力を知らしめた不動の名作、「万年時計」

 

写真 万年自鳴鐘(万年時計):株式会社 東芝所有・国立科学博物館へ寄託

 

時は、ロンドンで初の万国博覧会が開催された嘉永4年(1851年)。
須弥山儀に続き、久重は持てる知識と技術の全てを注ぎ込んだからくり時計の"最高傑作"を完成させました。-「万年時計(万年自鳴鐘)」です。
西洋時計と和時計のほか、曜日や二十四節気、旧暦の日付、月の満ち欠け・・・。あらゆる"時の概念"、"匠の技"をひとつに凝縮したこの傑作の誕生により、嘉永5年(1852年)に「日本第一細工師」の招牌を受け、「田中久重」の名は世に知れ渡るところとなります。

 

★気高く精巧な万年時計は、人々の目に広く、深く焼きついた。

 

写真 万年自鳴鐘(万年時計)の「引札」:国立科学博物館所蔵

 

進んだ西洋技術を受け入れるだけでなく、日本の生活文化を融合させ、社会に役立つものとする-。久重のこの想いを、万年時計はよく表しています。
当時、時計を収集していた松江藩主や、譲渡を切に希望した佐賀藩主など、引く手あまたとなったが、久重は申し出を断り続けました。
目的は金儲けではなく、自らの傑作が大衆に広まり文化に根付くことでした。これ以降の製品広告では自らを「万年自鳴鐘師」と記しており、作品への思い入れの深さがうかがえます。評判高き万年時計は後に、幾多の博覧会や展覧会に出展されました。

 

★江戸時代末期、日本の時計の独創性が確立する。

 

写真 太鼓時計(複製):東芝未来科学館所蔵

 

目覚し機能がある「枕時計」、宇宙観を示した「渾天時計」(こんてんどけい)、時間ごとに太鼓を打ち、ニワトリが時を報じる「太鼓時計」・・・。機能もデザインもユーモアにあふれたそれらは、まさに久重の飽くなき探究心と遊び心の賜物でした。
五十代半ばにして、なおもその探究心は留まるところを知らない久重。時は嘉永6年(1853年)、ペリーの黒船来航、そして開国への道を歩んでいきました。

 

●5話 革新Innovation

 

★"開国の足音"に久重の創造欲はさらにかき立てられる。

 

写真 蒸気船雛形(スクリュー式):財団法人鍋島報效会所蔵

 

開国を要求する欧米の圧力が日に日に高まっていました。こうした動きに対し、長崎警備を担当していた佐賀藩では、藩主・鍋島直正(なべしまなおまさ)の指揮の下、優秀な技術者を集め、大砲の鋳造や蒸気機関の建造、化学薬品の研究開発などに取り組んでいました。
むろん、久重もこうした国防技術に関心を抱いており、蘭学者・広瀬元恭のもとで培った西洋知識を生かし、独力で実作に励んでいました。
嘉永5年(1852年)には、日本初となる動く蒸気船雛型を完成します。

 

★国防技術の開発を請われ、久重、佐賀藩に着任。

 

写真 カノン砲雛形:東芝未来科学館所蔵

 

嘉永6年(1853年)、久重は佐賀藩の蘭学者・佐野常民の薦めにより、精煉方に着任しました。
日本初の反射炉を持つなど、当時最先端の科学技術研究機関であった精煉方の発展には、久重の技術は不可欠でした。とりわけ蒸気機関技術は佐賀藩のみならず日本の未来がかかっていたのです。
久重は火薬に詳しい中村奇輔(なかむらきすけ)やオランダ語の達者な石黒寛二(いしぐろかんじ)らの才人とともに、蒸気機関や大砲などの技術開発に取り組み、日本の国防技術の近代化を強力に後押しすることになります。

 

★開国。時代は本格的な機械工業へ。久重、西洋先端技術に挑む。

 

佐賀藩精煉方絵図(蒸気車雛形試運転):財団法人鍋島報效会所蔵

 

江戸幕府はついに安政元年(1854年)、下田と箱舘(函館)を開港しました。
開国に伴い、欧米の最新技術が堰を切ったように流入し、久重は想像をはるかに超える進歩を遂げた西欧技術を目の当たりにします。
開国翌年の安政2年(1855年)、久重らはスクリュー式と水車式の本格的蒸気船の雛型を完成させました。さらに同年、ロシアの軍艦内で見た蒸気機関車の模型を参考に、わが国初の蒸気機関車の模型を製作、佐賀藩主・鍋島直正の前で走らせています。

 

★近代的な重工業の礎の構築に向け、郷里・久留米でも尽力する。

 

写真 アームストロング砲:財団法人鍋島報效会所蔵

 

船舶の交信に使われる電信機(エーセルテレカラフ)、蒸気砲の雛型、写真機やガラス製の手ぬぐいかけ。久重が精煉方で手がけたものは多岐にわたりました。
文久2年(1862年)、久重は、佐賀藩がオランダから購入した軍艦「電流丸」の蒸気釜を完成させます。それは久重の積年の夢である蒸気機関技術を手にした瞬間でもありました。
やがて久重は郷里の久留米藩からも招かれます。技術顧問として藩陸軍の製砲事業に関わり、先端兵器であるアームストロング砲などを完成させたほか、火薬技術を使い氾濫を繰り返す筑後川の河川改修までも行いました。

 

★明治時代へ。あたらしい時代の夜明けとともに久重自身も新たな夜明けを迎える。

 

写真 指示式電信機エーセルテレカラフ:(諫早市指定有形文化財)早田家所蔵

 

日本は幕末の動乱を経て、明治という新たな時代の夜明けを迎えました。
技術者・学識者らは、先を争うようにあたらしい科学技術・文化を吸収します。そこには六十半ばにしてなお、先進の技術を探求し続ける技術者、田中久重の姿がありました。
久重は時代の要請でもある国防技術開発に見事応える一方、日本初の製氷機械や自転車、人力車、精米機、川の水を引き上げる昇水機など、生活に密着した製品の開発改良にも情熱を傾けました。人々に役立ってこそ技術。
激動の時代にあって久重のポリシーはいささかも揺らいではいなかったのです。

 

6話 創業Fundation

 

★久重七十三歳。新たな大志を抱き、新首都・東京に向かう。

 

写真 田中久重:久留米市教育委員会所蔵

 

明治6年(1873年)、博多港。意気揚々と蒸気船に乗り込む久重の姿があった。向かうは、文明開化に沸くあたらしい首都・東京。
近代化を急ぐ明治政府にとって、西洋技術の国産化は緊急の課題。中でも急速に拡大する通信事業については優れた技術者が必要となっていました。
「田中久重を東京に呼び、日本の近代化にもう一働きしてもらおう-」
政府からの要請に、七十三歳の心は滾(たぎ)りました。「文明開化の中心地で自らの技術を日本に、世界に問える」と。

 

★高品質な通信機をたちまち開発。

 

写真 1878(明治11)年に店舗兼工場に設置した電話機(レプリカ):東芝未来科学館所蔵

 

久留米時代の従業員と共に上京した久重は、知人の寺の二階を工場に借りると、すぐさま電信機づくりに着手、ほどなくヘンリ電信機(指示電信機)をつくり上げました。
久重のつくった電信機は、輸入品と違わぬ精巧さを持ち、操作性はそれ以上だった。政府からは追加注文が続々と舞い込みました。
だが久重は浮かれません。からくり儀右衛門の真骨頂は、先端技術を駆使しもっと人々の生活に役立つ、驚きに満ちた発明をすることにあったからです。
その気概はその後神谷町につくった「珍器製造所」という工場の名前にも見て取れます。

 

★久重、銀座に新たに店舗開設。東芝の歴史、ここに始まる。

 

写真 明治28年頃(現在の中央区銀座8丁目)の店舗兼工場

 

文明開化の中心で先端技術と文化を取り込み、生み出した新技術を世に問いたい-久重は上京後その思いを強くしていきました。
「その地は赤煉瓦の洋館が建ち並ぶあたらしい街銀座しかない」
明治8年(1875年)7月11日、久重は現在の東京・銀座8丁目に、あたらしい工場兼店舗を構えます。店の傍らには「万般の機械考案の依頼に応ず」との看板が掲げられました。久重の技術者としての自負、飽くなき探究心が窺えます。
このときをもって東芝の創業としています。

 

★八十歳を迎え、なお衰えを知らぬ探究心、創造力。

 

写真 報時器:逓信総合博物館所蔵

 

掲げた看板に偽りはありませんでした。久重は求められるまま、興味の赴くままに、実にさまざまなものをつくり上げます。電気計器から木綿糸取機、羅針盤などのほか、天動説信者のための「視実等象儀」までつくりました。
明治11年(1878年)には、アメリカから輸入された電話機から推測し、独自に電話機をつくり、さらに同年には、日本全国に時報を伝える「報時器」を生み出します。
これらの機器はやがて到来するエレクトロニクス時代に先駆け、久重が日本の産業界に蒔いた大きな種でした。

 

★からくり儀右衛門、永眠。その情熱と探究心は東芝DNAに。

 

田中製造所の広告:国立科学博物館所蔵

 

永遠の発明少年、"からくり儀右衛門"こと田中久重は、明治14年(1881年)、満八十二歳でその生涯を閉じます。幕末から明治に至る動乱時代にあって、常に時代の先端を見すえ、人々を楽しませる発明を追い続けた充実の人生だったでしょう。
久重の遺志と事業は、二代目久重となる弟子の田中大吉が受け継ぎます。
大吉は久重が没した翌年、東京・芝浦に「田中製造所」を設立。久重の情熱と探究心のDNAはここにしっかり受け継がれました。
そしてそのDNAは今日の東芝の中に脈々と息づいています。<完>

参考/「田中近江大掾」「からくり儀右衛門-東芝創立者田中久重とその時代-」(ダイヤモンド社刊)