東アジア反日武装戦線と昭和天皇(24年2月13日 日本経済新聞電子版)

 

編集委員 井上亮

 

写真 爆破されビルの窓枠などが散乱する三菱重工ビル前の通り(1974年8月、東京・丸の内)=共同

 

1970年代半ばに12件の連続企業爆破事件を起こした過激派「東アジア反日武装戦線」のメンバーで、爆発物取締罰則容疑で指名手配されていた桐島聡容疑者(70)とみられる男が1月29日、神奈川県鎌倉市内の病院で死亡した。

74年8月30日、東京・丸の内のオフィス街、三菱重工ビル前に仕掛けられた爆弾で、8人が死亡し、約380人が重軽傷を負った。約1カ月後、東アジア反日武装戦線〈狼(おおかみ)〉を名乗る犯行声明が出された。赤軍派による「よど号ハイジャック事件」(70年)、連合赤軍の「あさま山荘事件と同志殺害」(72年)と並んで、社会を震撼(しんかん)させた過激派三大事件と呼んでもいいだろう。

平成以降に物心がついた世代では「そんな事件があったのか」という人も多いのではないか。奇(く)しくも事件から50年の今年、過去の亡霊が立ち現れてきた感がある。ただ、この組織は〈狼〉のほか〈大地の牙〉〈さそり〉の3グループで事件を起こしており、〈さそり〉のメンバーだった桐島容疑者は三菱重工事件には関与していない。同容疑者の〝発見〟でテレビニュースでは同事件の映像が再三流されたが、やや誤解を招いているかもしれない。

写真 桐島聡容疑者を名乗っていた男(知人提供)と桐島容疑者の指名手配ポスター=いずれも共同

 

筆者は90年代初めに警視庁の警備・公安担当記者を務めていた。「東アジア―」の組織は解体していたが、死刑が確定して拘置中のメンバーの支援組織や「後継」を名乗る過激派が存在した。ただ、当時は成田空港での三里塚闘争や平成の天皇即位礼粉砕を叫ぶ反天皇闘争が過激派の活動の主流で、記者の関心もそちらに向いていた。〈狼〉たちが起こした事件はすでに遠い過去の「歴史」だった。

それでも警備・公安担当記者としては、〈狼〉は看過できない存在だった。それは彼らが作成した都市ゲリラ教本「腹腹時計」が爆弾製造マニュアルとして、過激派の間で「聖典」化していたからだ。筆者もそのコピーを入手し、爆弾担当の警察官を夜回りして解説を求めたりしていた。

一線を越えた暗殺計画「虹作戦」

もう一つ気になっていたのが、他の新左翼過激派とは一線を画する〈狼〉らの特異な思想、歴史観だった。共産主義革命を目指す新左翼各派は、実現性はともかく、革命後のビジョンがあった。一方、〈狼〉らはアナキスト(無政府主義者)であり、彼らのいう「帝国主義体制」の破壊が目的で、革命のための組織論がなかった。メンバーが公然と主張を述べることをしない、完全な地下組織だった。

そして、それまでどの過激派も実行しようとしなかったテロを本気で計画した。昭和天皇の暗殺である。

写真 三菱重工ビル爆破事件の約3カ月前、春の園遊会で招待客と歓談する昭和天皇(1974年5月)

 

彼らが活動していた時期の反体制・学生運動は70年安保反対闘争やベトナム反戦闘争が主軸で、反天皇制の言説はあったものの、観念的なものだった。90年代の反天皇闘争も即位礼のようなイベントへのリアクションであった。もし、天皇をターゲットにして〝成功〟したとしても、予想される反動はすさまじく、革命どころではなくなる。組織に拘泥しない〈狼〉だからこそ、その一線を越えようとした。

彼らは毎年8月に那須の御用邸で過ごす天皇が、15日の全国戦没者追悼式出席のため、前日の14日に列車でほぼ定時に帰京する行動パターンをつかんだ。三菱重工事件の半月前の8月14日に列車が通過する荒川の鉄橋に爆弾を仕掛け、天皇を殺害する計画を立てた。彼らはこれを「虹作戦」と名付けた。

決行前夜の13日夜、〈狼〉のメンバーは鉄橋に爆弾を仕掛ける作業に入ろうとしたが、「得体(えたい)のしれない男たち3~4人」が自分たちを注視していることに気がついた。これを公安の張り込みと受け取ったメンバーは、急きょ計画中止を判断した。しかし、警察が計画を察知していた事実はなく、勘違いだった。

天皇の列車が通過する線路は事前にチェックすることになっており、その作業員もしくは警察官だった可能性がある。また、爆弾を仕掛けようとした線路は天皇の列車が通過する線路とは異なっており、実行したとしても天皇に危害は及ばなかったとみられる。

自己否定の暴走

1年以上準備した計画が挫折して意気消沈していた〈狼〉を刺激する事件が15日の終戦の日に起きた。在日韓国人の文世光が拳銃で韓国の朴正煕大統領暗殺を図った事件だった。〈狼〉は「わたしたち日本人の不徹底性を再認識」し、虹作戦に代わる次の作戦を早急に決行することを決めた(メンバーの益永〈旧姓・片岡〉利明死刑囚の裁判での意見陳述)。攻撃対象は「日帝(日本帝国主義)独占資本・三菱」だった。

「三菱の侵略犯罪を第一線でになってきたのは三菱の社員自身」であり、「三菱労働者は被抑圧者であると同時に抑圧者でもある日帝本国人として、資本家と一体的な侵略者」(同)というのが彼らの理屈だった。

天皇を殺害するための爆弾は丸の内のオフィス街でさく裂した。この事件を機に〈大地の牙〉〈さそり〉が加わり、「日帝独占資本」の「抑圧者」「侵略者」の企業を標的にした連続爆破事件が起きた。

写真 三菱重工ビル爆破事件から半年、爆破された間組(当時)本社ビルのパンチ室(1975年2月、東京・青山)

 

日本の過激派では例のない天皇暗殺計画から企業攻撃に至った爆弾闘争の暴走はなぜ起きたのか。キーワードは「自己否定」だった。

〈狼〉のリーダー格、大道寺将司(死刑確定後、収監中に死亡)は北海道の釧路に生まれた。大道寺は少年時代から、差別され貧しい環境に置かれていたアイヌ民族に深く同情する。

「日本の近・現代史は『南の辺境沖縄』、そして『北の辺境アイヌ』の収奪という内国植民地化から始まり、それをアジア・太平洋に押し拡げた歴史でした。その結果が一九四五年八月一五日の敗戦です。しかし、一九四五年八月一五日の敗戦を経てもこの国は何も変わることがなかった」と大道寺は東京拘置所での証人尋問で語っている。

そして、そのような歴史認識を欠いた従来の反体制運動には根本的欠陥があるという考えに至る。「全共闘運動はよく『自己否定』――学生としての特権を否定する――という言葉とともに語られるのですが、その自己否定ということがアジアに対する加害責任としての歴史認識によって支えられたものではなかった」(同)と言う。

写真 反戦・反安保6・15統一行動日御堂筋デモで機動隊の盾の壁の間でジグザグデモをする学生たち(1969年6月、大阪市中央区)=共同

 

深い歴史認識をもとに自己否定を進めると、日本のアジアへの加害責任にぶつかり、日本人としての特権の否定、「反日」に至る。益永死刑囚も「『反日思想』とは、このような自己否定の思想であり、自己を否定するがゆえに、主体的な革命のプログラムをもたないことが、われわれの〝党派性〟だったともいえるのである。われわれの存在意義とは、日本に対して、ひたすらアンチの存在でありつづけることだった」(意見陳述)と語っている。

益永死刑囚は15歳で洗礼を受けたクリスチャンだった。「わたしは、キリストがそうであったように、ひとびとの苦しみを自分の十字架として背負うことができる人間になろうと思った」(同)と言う。

〈大地の牙〉メンバーの浴田由紀子(77年、日本赤軍のダッカ事件による超法規的措置で国外に出たが、その後逮捕、服役後の2017年釈放)も「私たちは、すべての人々が解放されるために、皆が平和に、対等に暮らせる社会を、差別や弾圧のない社会を作るために革命運動に参加しました」と裁判での意見陳述で話している。

歴史的に差別を受け、迫害されてきた人々に対する〈狼〉たちの思いは、ある意味、純粋過ぎるほどだった。70年安保闘争など政治の季節が過ぎ去り、多くの若者が日常に戻ったあともごく少数の人間は闘争を深化させようとした。〈狼〉もそうだった。

日本の「加害」の歴史を突き詰めていくと、そこに天皇があった。天皇の戦争責任問題が未決着であり、「日本人がだれひとりとして、おのれの生命をかけてまでやろうとしなかった天皇の戦争責任の追及を決意した。これは、日本人の良心を示すことであるとわたしたちは確信した」(益永)というのだ。

自己否定は「おのが退路をたち、日帝との非妥協的関係に自分を追い込む」、つまり自身を非市民化・アウトロー化し、戦わざるを得ない状況にする「唯武闘主義」に傾斜していった。彼らは逮捕された後、多くの市民を殺傷したことは「闘争の誤り」として謝罪したが、天皇と企業を標的としたことは正義であるという論理を変えなかった。

自己を無にしての闘争。自己否定の暴走といえようか。「社会と人々のため」という純粋な動機から、独善的な「正義」へと至った結果は、のちのオウム真理教とも共通する。

そして、現代は孤独な狼たち=ローンウルフ、ローンオフェンダー〈単独攻撃者〉が自暴自棄のテロに走る。明日を持たない人間の恐ろしさ。半世紀を経て蘇(よみがえ)った〈狼〉の記憶はそれを警告しているようでもある。

いま、SNSなどでは「反日」という言葉が異なる意見を攻撃、排除する文脈で使われている。自己否定とは真逆の、他者の境遇を思いやらない、自己中心、自己尊大の言説も目立つ。〈狼〉たちの闘争には共感も評価もないが、ネット空間の殺伐とした言論を目にすると、両者の心の砂漠はどちらの方が渇いているのだろうとも思う。

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