英国大使館跡に弥生後期の大規模集落、竪穴建物跡40基以上…マンション建設予定地で調査(24年2月11日 読売新聞オンライン無料版)

 

記事

 

(1)東京都千代田区は9、10日、英国大使館跡地(同区一番町)で発見された弥生時代や江戸時代の遺跡を区民らに公開した。

土地を所有する三菱地所レジデンスなどが調査を進めており、弥生、江戸の両時代の人々の生活がうかがえる貴重な資料も見つかっている。

 

写真 江戸時代と弥生時代の遺跡が入り交じる英国大使館跡(9日、東京都千代田区で)

 

(2)「土が赤く変色しています。ここは料理を煮炊きしていた場所」。9日午前、発見された弥生時代の竪穴建物跡の前で、調査員が当時の生活の様子などを、訪れた人に説明していた。

 

写真 弥生時代のかめ

 

これまでの調査では、弥生時代後期とみられる竪穴建物跡も40基以上発見された。このほか、弥生土器に加え、縄文土器も見つかっているという。

(3)遺跡が見つかったのは、同社が2022年4月に英国から購入した英国大使館の敷地の一部。

マンションの建設予定地として購入されたが、23年2月に区の試掘で遺跡が発見され、同社が同6月から本調査を行っている。調査は今春までに終了する見込みで、順次、埋め戻しながら、マンション建設を進める予定という。

 

(4)今回の調査地域は、旗本や大名の武家屋敷などとして利用されていたとみられており、調査では地下室や上水跡なども確認された。

 区内には、江戸時代を中心に97か所の遺跡が登録されているが、弥生時代後期の大規模な集落が見つかるのは初めてという。

 

(5)江戸の町が整備される以前の暮らしを知る手がかりとしても期待されている。

 区の学芸員、相場峻さん(36)は、「江戸時代は切り土や盛り土をして土地を開発してしまうことが多く、これほど大規模な弥生時代の遺跡が残っていることに意義がある」と話した。

 同社や区などは、26年3月末までに、遺跡について報告書をまとめ、区民らにも閲覧できるようにする予定。

 

■駐日英国大使館 ウィキペディア

 

British Embassy Tokyo)は、イギリス政府が日本に設置している大使館である。所在地は東京都千代田区一番町。

 

明治維新後、多くの大名屋敷が空になった。このため、1869年1月(明治元年11月または12月)頃、英国のパークスは公使館を三田上野沼田藩の下屋敷跡に移した[3]。さらに、パークスは恒久的な公使館用地を求めて[4]、江戸城近くの複数の用地を物色した結果、1872年5月(明治5年)、七戸藩上屋敷、櫛羅藩上屋敷、七日市藩上屋敷、および旗本水野兵部の屋敷跡を合わせた12306坪(1884年(明治17年)の本契約では10833坪)をほぼ永久に貸与されることとなった[5]が、賃料が低い水準に抑えられたことが両国間の問題となっていく(後述)。

 

東日本大震災における原発事故への対応[編集]

2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)の際の福島第一原子力発電所事故にともない、ドイツ、スイス、オーストリアなど25ヵ国以上の国が東京の大使館を閉鎖、あるいはその機能を関西以西に移したが、英国はイタリアなどとともに東京都にとどまった。大使館のウェブサイトでは、在日イギリス人に向けて、英国の原子力専門家の見解を示し、福島第一原子力発電所から一定の距離を保てば、放射能汚染を過度に恐れる必要はないことを科学的に説明。また、当時のディビッド・ウォレン駐日英国大使は、支援物資を載せた自動車を連ねて宮城県に入り、震災発生の2日後から16日まで現地の避難所をまわった[10]

 

土地をめぐる問題[編集]

1872年(明治5年)以来、日本国政府はイギリス政府に対して3万5000平方メートルの国有地を貸し付け、そこに英国大使館が設置されていた。賃貸料は10年単位で両国政府間の協議にて決定してきた。

2013年(平成25年)には路線価約700億円に対し年間の賃貸料は8129万円と極めて低めに設定されており、協議が難航することも多く、抜本的な問題解決が望まれた[11][12][13]

2013年(平成25年)12月、両国政府の間で土地を日本側とイギリス側で分割することで基本的に合意した。

2015年(平成27年)8月31日、最も南側の約7000平方メートルが返還され、残りはイギリス政府の所有となった。返還された敷地には、2023年3月15日、国民公園皇居外苑半蔵門園地が開設された。