核心 自民党に明日はない(論説フェロー 芹川洋一)(24年2月5日 日本経済新聞電子版)
記事の概要
(1)自民党の歴史は「政治とカネ」にまつわるスキャンダルの歴史でもある。
(2)「スキャンダルのたびに選挙で負けたり、党を飛び出す勢力があったりして、しぶとく生き残ってきた」
(3)「ロッキード事件で河野氏ら党内の中堅・若手が新自由クラブを旗揚げした」
(4)「実質的に派閥を解散したのは福田派だけだった」
(5)「スキャンダルを批判し行動する若手議員の存在が保守票の受け皿になった」
(6)「リクルート事件」
(7)「東京佐川急便事件」
(8)「政治改革のうねりは自民党の分裂につながった」
(9)「今回は中堅・若手議員による「下から」の声があがってこない」
(10)「若手中堅がロッキード・リクルートで新自ク・新党さきがけを作り自民党を延命させた」
(11)「政党のダイナミズムを感じさせる侃々諤々の保守政党はどこへ行った」
記事
(1)自民党の歴史は「政治とカネ」にまつわるスキャンダルの歴史でもある。
この半世紀を考えても、党をゆるがす大がかりなものでは
ロッキード、
リクルートから
東京佐川急便
といった事件がおこった。そして今回、派閥の政治資金問題である。
そのたびに党執行部はおっとり刀で、政治資金の扱いや派閥のあり方の見直しなど改革の取りまとめに乗りだす。
(2)「スキャンダルのたびに選挙で負けたり、党を飛び出す勢力があったりして、しぶとく生き残ってきた」
その間、有権者におきゅうをすえられ選挙で負けたり、党を飛び出す勢力があったりしながら、なぜかしぶとく生き残ってきた。
改革はどこかに置き忘れながらだ。過去を見つめ直すと、今とこれからの自民党がほの見えてくる。
(3)「ロッキード事件で河野氏ら党内の中堅・若手が新自由クラブを旗揚げした」
記者として駆け出しのころだ。ロッキード事件でゆれた1976年、衆院は戦後初の任期満了選挙になった。投票日は12月5日だった。
最後のお願いの4日。午前7時、静岡市の静清中央卸売市場に新自由クラブの河野洋平代表の姿があった。
「日本の政治に新風をふき込み、政治不信をただす新自由クラブの正義の戦いを支援してほしい」
ロッキード事件をきっかけに河野氏ら党内の中堅・若手の6人が自民党を飛び出し、新自由クラブを旗揚げした。自民党は選挙に敗北、新自クはブームをおこし17人が当選した。
(4)「実質的に派閥を解散したのは福田派だけだった」
「この事務所も見納めだな」――。福田赳夫首相が都内の赤坂プリンスホテルで派閥(八日会)の解散式にのぞんだのは翌77年3月9日のことだ。三木武夫首相の後を継いだ福田首相は党改革の一環として派閥の解消に動いた。
各派もこれにならった。党本部9階(当時)に議員が集まる「リバティー・クラブ」をつくったのはこのときだ。
しかし実質的に派閥を解散したのは福田派だけだった。他派閥は単に看板をおろしただけで「政策集団」「政策研究会」として復活させた。
(5)「スキャンダルを批判し行動する若手議員の存在が保守票の受け皿になった」
10年後の86年、新自クは解散、自民党に合流した。ただスキャンダルを批判して行動する若手議員の存在が野党には行き切れない保守票の受け皿になり、政治への期待をつなぎとめる効果はあった。
(6)「リクルート事件」
ロッキード事件から干支(えと)がひと回りした88年、こんどはリクルート事件だ。
このときも若手議員たちが異議申し立てに動いた。
最初は「ユートピア政治研究会」だった。中心メンバーは武村正義、鳩山由紀夫、渡海紀三朗各氏らだ。
小選挙区制の導入などを内容とする政治改革への提言をまとめた。それが89年5月の政治改革大綱につながっていくが、そこに盛り込まれた派閥解消は単なる空念仏にすぎなかった。
(7)「東京佐川急便事件」
政治改革の動きをさらに加速させるきっかけは東京佐川急便事件だった。92年8月、金丸信元副総裁へのヤミ献金が明るみに出たことだ。
同年11月10日、日比谷野外大音楽堂で開いた民間政治臨調主催の「政治改革を求める国民集会」の映像がある。
岡田克也、仙谷由人、小池百合子各氏ら党派を超えた約80人の国会議員が出席した。
「政治改革ができなければ地獄を見るのは政治家だけでなく、国家国民だ。個人の倫理に逃げこまないで制度の問題として考えなければならない」――。
決意表明する石破茂氏には悲壮感が漂っていた。求めたのは中選挙区の廃止だった。
(8)「政治改革のうねりは自民党の分裂につながった」
政治改革のうねりは自民党の分裂につながり、38年におよんだ自民党長期単独政権に終止符を打った。竹下派をめぐる主導権争いという政局絡みの思惑があり、それに使われた面があったとしても、中堅・若手議員が現状打破の先陣を切ったのは事実だ。
そこには政治のエネルギーがあり、まだ希望があった。
下野した94年には派閥解消を打ち出し事務所を閉鎖したが、すぐさま復活した。
(9)「今回は中堅・若手議員による「下から」の声があがってこない」
そして今である。岸田文雄首相(総裁)を本部長とする「政治刷新本部」では党内の各層の代表者らが議論、中間とりまとめを決めた。その過程で首相が岸田派の解散を表明、安倍、二階、森山各派がつづき茂木派も揺れている。
改革の議論は「上から」の党執行部主導で進んだ。派閥解消については無派閥の議員らによる「横から」の動きは出てきた。
しかし不思議で仕方のないのは、平成の政治改革を経て誕生してきた中堅・若手議員による「下から」の声があがってこないことだ。
(10)「若手中堅がロッキード・リクルートで新自ク・新党さきがけを作り自民党を延命させた」
小選挙区になり党執行部の力が相対的に強くなり、個々の議員は牙を抜かれてしまったのか。弱体野党にとって代わられる心配はないとタカをくくっているからなのか。
ロッキード・リクルートの落とし子である新自ク・新党さきがけも10年単位でみれば多くが元のさやにおさまり、自民党の延命装置の役割を担ったといえる。若手が動き党を割る活力があったから党は生き永らえたといえないか。
(11)「政党のダイナミズムを感じさせる侃々諤々の保守政党はどこへ行った」
今回、そうした芽どころか、派閥解消も一緒で、若手が先だって離脱する動きすら出なかった。党執行部を突き上げる声も聞こえてこない。お互い横にらみで、羊の群れだ。ほとぼりが冷めると派閥は復活するにちがいない。
政党のダイナミズムを感じさせる侃々諤々(かんかんがくがく)の保守政党はどこへ行ったのだろうか。それが失われているとすれば自民党に明日はない。