レスリング 最強を継ぐ者(4) 五輪女王生んだエリート教育 言語技術培い「設計図」緻密に(24年1月26日 日本経済新聞電子版)

 

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写真 須崎はエリートアカデミーで競技力のほかに言語技術なども向上させ、東京五輪での金メダルにつなげた(2021年)

 

(1)3年前の東京五輪。過去最多に並ぶ5個の金メダルを獲得したレスリング日本代表で、とりわけ強い光彩を放ったのが女子50キロ級の須崎優衣(キッツ)だった。

全4試合を無失点のテクニカルスペリオリティー勝ち。

五輪史に残るような「圧勝」で頂点に立った。

表彰式で五輪4連覇の伊調馨(ALSOK)からブーケを手渡される姿は、新時代の到来を予感させた。

 

(2)「2大会続けて代表入りの須崎」

半年後に迫ったパリ五輪代表の顔ぶれは東京五輪と大きく変わる。

前回出場した男女12人のうち、2大会続けて代表入りしたのはわずかに2人。世代交代の波が押し寄せる中、須崎はただ一人連覇に挑む。

元レスリング選手の父、康弘の影響で小学1年生の頃に競技を始めた。

程なくして頭角を現し、五輪の金メダルを目標に定めた少女のレベルを大きく引き上げたのが、中学2年時に入校した日本オリンピック委員会(JOC)のエリートアカデミーだった。

 

(3)2008年に発足したエリートアカデミーでは、全国から選抜された中高生が近隣の学校に通いつつ、味の素ナショナルトレーニングセンター(東京・北)で寄宿生活を送る。

現在はアーチェリーや卓球、ライフル射撃など6競技の計30人が在籍し、レスリングは最も多い11人の選手を抱える。

 

(4)レスリングは卓球と共に初年度から選手を募集してきた。東京五輪ではアカデミー修了生のうち、須崎と女子53キロ級の志土地(旧姓向田)真優(ジェイテクト)、男子フリースタイル65キロ級の乙黒拓斗(自衛隊)の3人が金メダルを獲得した。

 

写真 吉村コーチは「大事なのは選手が自分で行動を起こすようにすること」と語る

 

(5)(アカデミー発足以来コーチ担当の元世界女王の吉村祥子)

自国開催の五輪は、関係者の尽力が結実した大会でもあった。

1)「自分の意思をすごく持っている子だった」。アカデミー発足以来、レスリングのコーチを担当してきた元世界女王の吉村祥子は入校当時の須崎について語る。「『とにかく強くなりたい』と。私が大事だと言ったことは全てやりきった」

2)吉村はアカデミーの選手に必ずノートを付けさせている。練習で学んだことを記録し、自分の課題を整理することが目的だ。

「優衣はノートをよく活用した選手だった」と吉村は振り返る。

須崎は練習場にもノートを持ち込み、気づいたことを逐次書き込んだ。「人の言葉を記録して、確実に(課題を)クリアしていくのが彼女の強さ」(吉村)

 

(6)東京五輪で男子に2大会ぶりの金メダルをもたらした乙黒拓も、吉村が中学時代から成長を見届けた一人。

「拓斗(乙黒)はレスリングが全ての中心。(競技に)マイナスなことはしない」。

けがをすれば医師がゴーサインを出すまで待ち、見切り発車で練習はしなかった。自らを律し、1年先まで考えて計画的に生活していたという。

 

(7)「必要なのは競技力だけではない。社会にも貢献できる人材を育てたい」

(設立から21年までディレクターを務めた平野一成)

アカデミーで選手が学ぶのはレスリングだけではない。アンチドーピングや栄養といった競技と関連する講義に加え、英会話や基礎学力の定着を目的とした学習指導も受ける。「必要なのは競技力だけではない。社会にも貢献できる人材を育てたい」。設立から21年までディレクターを務めた平野一成は事業の目的を語る。

 

(8)「つくば言語技術教育研究所の三森ゆりか氏が論理的な思考力や表現力を指導」

須崎や乙黒拓が高い評価を受けたのが、言語技術に関する教育プログラムだった。

つくば言語技術教育研究所の三森ゆりかを講師に招き、論理的な思考力や表現力の向上を目指す。授業では「フランスの国旗を構成する要素」「アスリートと食事の関係」といった題目を文章で論理的に説明させる。

「優衣は考えたことを活字に落とす力がたけていた」と吉村は回顧する。

平野によると「勉強が好きではなかった」という乙黒拓も、「レスリングに役立つから」と言語技術の授業には熱心に取り組んだ。

 

(9)「試合の30秒で指示を理解し自らの状態を伝えることに優れ」

レスリングの試合では各3分の2つのピリオドの間に30秒のインターバルがある。

選手は短時間でコーチの指示を理解し自らの状態を伝える必要がある。平野は授業によって培った思考力や表現力が競技面にも大きく寄与しているとみる。

 

(10)「選手は引退後の人生の方が長い」と平野は強調する。セカンドキャリアの幅を広げたいと、須崎はアカデミー修了後に早大に進学した。

現在アカデミーで学ぶ高校2年生の内田颯夏(そわか)は須崎に憧れ、中学2年時に入校した。

17歳以下の世界選手権を2年連続で制し、初出場した昨年末の全日本選手権では3位に入った。28年ロサンゼルス五輪を目指す有望株だ。

内田も言語技術を学んだ効果を実感する。「ノートを書くときも、きちんと言葉で説明しないと読み返したときにわからない。他の人に教えるときにも役立っている」

 

(11)「物事には再現性がなければいけない」

吉村はレスリングでも選手に論理的な戦いを求める。

「物事には再現性がなければいけない。感覚でやってきた選手にも、設計図ができるように理論付けて教えている」。

内田は吉村の指導について「タックルに入るときの足の位置など、細かいところまで教えてくれる」と話す。

 

(12)「大事なのは選手が理解して、自分で行動を起こすようにすること」

時代は変化し、かつて当たり前だったスパルタ指導では選手はついてこない。論理的思考力は指導者に必要な要素でもある。「大事なのは選手が理解して、自分で行動を起こすようにすること」と吉村は言う。

 

(13)「人間力を磨く」

修了生からは須崎に加え、女子76キロ級の鏡優翔(東洋大)もパリ五輪代表に内定している。「アカデミーから育った選手たちはいい指導者になれる」と吉村は太鼓判を押す。技術だけでなく人間力を磨いたレスラーたちが今後の日本を背負っていく。

=敬称略

 

私見

吉村コーチが現役時代に指導を受けたコーチ

鈴木光(日大)村本健二(日本体育大)木名瀬重夫(日大)金浜良(日大)