春秋(24年1月22日 日本経済新聞電子版)

 

記事

 

(1)富士山は恋の山。

石田千尋著「富士山と文学」によれば、昔の日本にはそんな捉え方があった。一例が古今和歌集の「人知れぬ思ひをつねにするがなる富士の山こそわが身なりけれ」。思ひと火、するがと駿河を掛け、噴煙を上げ続ける山に託して秘めた恋心を訴えた。

 

(2)▼夏も消えぬ頂の雪が神秘性から信仰心へとつながる一方で、立ち上る煙と噴火は恋の情熱を連想させた。

手の届かない高みは「伝説の偉人が馬で跳び越え……」といった人形浄瑠璃を生む。「あらゆる時代、あらゆるジャンルの作品に富士山は登場する。そのような山は世界でも他に類を見ないのでは」と石田さんは説く。

 

(3)▼今年の正月休みに初夢で見た方、初日の出を観賞に出かけた方、車窓から姿を探した方々もおられよう。

目にすれば何かうれしく、誇らしい山。だが夏目漱石は「三四郎」でこう皮肉を記す。「(日本は)外(ほか)に自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったもの。我々がこしらえたものじゃない」

 

(4)▼訪日外国人の消費額が過去最高となった。

富士山も一翼を担い、家電など「我々がこしらえたもの」に代わり外貨を稼いでくれている。全室個室の山小屋が誕生し鉄道敷設計画もある。「きみたち、あれこれ私に期待しすぎでは」と思っているかも? 澄んだ冬空の下、遠く霊峰を窓から眺めつつ山の心情を忖度(そんたく)してみた。