春秋(24年1月15日 日本経済新聞電子版)

 

記事

 

(1)「全てが崩れ去り、言葉が破壊された時、言葉にも表現できないような時にこそ、人は内面を大切に保つべきです。危険にさらされている人々が暖かさ、優しさを失わず、互いに助け合おうとする姿を伝えたかったのです」。こう語ったのは一人のウクライナ人女性だ。

 

(2)▼耳を傾けたのは、日本文学研究者のロバート・キャンベル氏。

ウクライナの詩人が人々の戦争体験を聞き取った1冊の本に心を打たれ、その語り部を訪ねる旅をした。この女性はリヴィウ駅で、列車を降りた避難民をもてなすボランティアをしていた。ある日、子どもたちに支援物資の「ちっちゃな」マドレーヌを配った。

 

(3)▼「失われた時を求めて」のかの有名な一場面を頭に浮かべながら。

小説の主人公がマドレーヌのひと欠片(かけら)から幼いころの記憶を呼び覚ましたように、手にした菓子が将来、故郷を思い出す手がかりになるかもしれない。女性は言う。「そのようにして、いかなる侵略者も破壊できない、わたしたちの内なる街を守っていく」

 

(4)▼キャンベル氏が原著の英訳版から和訳し昨年末に刊行した「戦争語彙集」(岩波書店)は忘れがたい記憶の断片でできている。戦争という巨大な悪を前に、一人一人が全存在をかけて残したもの。それらを積み重ねれば、いつの日か「『悪』を押し留めるような抑止力になるのではないか」。同氏が記す希望をかみしめる。