高津宮は大阪城本丸地区に 仁徳天皇が朝鮮半島情勢に対処か(24年1月10日 産経新聞オンライン無料版)

 

記事(上坂 徹)

 

写真 法円坂倉庫群跡から、大阪城天守閣を望む。この辺りに高津宮があったのか=大阪市中央区

 

(1)『日本書紀』(書紀)に聖帝と描かれる5世紀前半ごろの仁徳天皇が営んだとされる「難波の高津宮(たかつのみや)」。

(西本昌弘・関西大学教授(日本古代史))

その所在地 大阪市街地を南北に走る丘陵(上町台地)の北端に位置する大阪城本丸地区(大阪市中央区)の可能性が高い。

「高津宮(たかつのみや)は、近所で開削した水路や港、難波宮跡(同)で遺構が見つかっている16棟もの巨大な倉庫群(法円坂倉庫群)

などとともに開発された」

とする論考を学術誌「ヒストリア300号」(大阪歴史学会)に発表した。

(2)「高津宮とともに、港や巨大倉庫群を難波に設けた背景」

(西本教授)

仁徳天皇が高津宮とともに、港や巨大倉庫群を難波に建設した背景には「当時の緊迫した朝鮮半島情勢があったのでないか」と指摘する。

 

治水に尽力

 

(3)(書紀)

(仁徳天皇)

応神天皇の第4子で、応神天皇が亡くなると、仁徳元年1月に即位。

 1)「難波に宮を造られ、高津宮という」。

 2)潅漑・治水事業

  同11年4月、群臣に「この国は土地は広いが、田んぼは少ない。河水は横に流れ、その流れは悪い。長雨になると海潮がさかのぼり、村里は(浸水し)船に乗ることになり、道路は泥に埋まる」とし、「あふれた水を海に通じさせ、逆流を防いで田や家を侵されないようにせよ」と詔したという。

指示通り、同年10月に「高津宮の北の野を掘って、南の水を引き、西の海に入れた。その水路を堀江と名付けた」という。

 3)「上町台地の西側は海で東側は湖」(古墳時代の大阪平野)

  現在とは大きく異なり、海岸線が深く入り込んで、上町台地の西側は海に面し、東側には湖があった。

淀川や大和川などの大河川によって上流から運ばれた土砂が堆積。北側から淀川の三角州が発達して、上町台地北端部との間の水路を次第に狭め、水害を受けやすい地形だったという。

 

書紀にある

 「南の水」は大和川で、

 「西の海」は大阪湾

とみられる。

高津宮の北側に、大雨が降ると浸水を招く水の流れがあったために、水の流路を深く掘り下げることで、大和川や淀川の水がスムーズに大阪湾に流れ出すよう、水路(堀江)を開削したようだ。

(以下有料記事)