akatsukinouta
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さとるって怒る事あるの?

ってたまに聞かれるけど

あるに決まってる。それを表さないだけで


ちょうど最近すごく腹がたつことがあって、イラッと瞬間頭に血が上ったんだけど、そのイラッとを言語化するまでにその熱が冷めてしまう。

ということを経験した。

会話の中では、怒りすらも、時が過ぎれば表せない雰囲気に移り変わってしまう。
日本人の心に打ち付けられた「空気を読む」という呪縛は感情すらも押さえつけるほど強いものなんだなあというのが、まずひとつ。


もう一つは、なんでその場ですぐ言語化する必要があったんだろう。ということ。
「オイ!」とか「はぁ?」とかで場をつないで、とりあえず怒りを相手に伝える言葉を順繰りに発していけばよかったじゃないか。
実際威嚇言葉はそのためにもあるような気がしている。


まずでも、僕はそういう言葉を使いたくない。


理由は3つある。

ひとつ こわいから

ふたつ 相手を萎縮させるから

みっつ 品がないから



ひとつめ。
威嚇言葉は、威嚇だ。開戦の合図だ。
これを使った瞬間に、空気的に戦いが成立し、身を引けなくなる。
だから自分をそこまで逼迫したステージに追い込むのがこわかった。
喧嘩慣れしていなかった僕の経験が(悪い意味でなく)足を引っ張ったと思っている。


ふたつめ。
ぼくは常に平等な対話を目指していたい。
それは僕のエゴだ。美学だ。
どんな人とでも、話をすると決めたなら、真剣に伝えあいたい。
それには、強い言葉はむしろ邪魔で。相手を染めてしまう。萎縮させてしまう。
言葉使いによっても、相手が出してくれるものが変わってくる。
怒りの中にあっても、そんなことを考えている自分がいて、なんだか滑稽でもあり、誇らしくもあった。
要するに僕は怒りを表すのに向いていない。


みっつめ。
とは言っても、やはりプライドはあるみたいで。
「品がない」
自分がしたいブランディングとは違う。
だから感情を発するのをためらった。
感情を表して、その人との円滑な未来を築こうと努力するよりも、自分のプライドをその瞬間選び取ったんだと思う。


ビビリで相手のことを瞬間考えてしまう。のにプライドはあって自分を守ろうとする。
どこが言い訳でどこが欺瞞かわからないけど、とにかく僕は弱者ではあるんだ。ということには気づいた。
だから怒りを生じるような扱いも受けるのかもしれない。


だったら、それはそれでしょうがないことなのかなあ。

と考えたあたりでこの思考に至ること自体がもうなんかいじめられっこ体質というかそういうところなんじゃないかと気付き、以降無限ループを繰り返すので思考を閉じて現実にお帰りするともう怒りは90%冷めていたりする。

これが怒った日の一瞬の出来事。
怒らないと思われてる人は、結構こういうメカニズムで怒りを沈静化させているんじゃないかと思う。
シェアハウスに住んでいるので、そりゃあけんかみたいな、いや、けんかみたいなすっきりきっぱりしたもんじゃなくて、なんとなく話しづらいオーラが出ていると感じるし、こっちも話しかけるなよみたいなオーラを発しちゃう事があって。


しかもそれは結構ハウス全体に伝染しちゃったりするんだよね


僕はあんまり人のこと苦手になるタイプでもないし、苦手になられるタイプでもないんだけど、やっぱり空気が伝染しちゃって
(空気のせいにするのはどうかと思うけど、自分なかに問題を探さなきゃいけないような気もするけど、探しても良くなんないことはあるのでとりあえず空気のせいに「半分」しといて考えるとちょっと解決の糸口が見えてきやすい)
なんとなくシェアハウスに住んでるのに人と話すのに億劫になっちゃったりもするし、こういうことって一年に何回も起きる。周期があるの。コミュニティの周期。


で、そういう時って、たいてい「シェアハウス」と「じぶん」が離れてる。自分の中で。


シェアハウスだけじゃなくて、人間関係って、自己を拡張していくことだと思っていて、自分勝手に生きてて人と生きれる人はいいんだけど、その2つって価値観が違ったりして同時に達成しにくい。

で、「人と生きる」ってのに重きをおく人は、相手の価値観にある程度合わせないといいけない。

それは決してそれ以前の自己の価値観の死ではなくて、プラスアルファ。

自分の価値観はもちろん持った上で、相手の価値観も認めること。


なので、今の自分 プラス 相手、で、自己の拡張


これがより切羽詰まった形で求められるのが共同生活だし恋愛。

なんでこんなこと、してるのかって思う。

けど、これが、自分の場合は、やっぱり楽しい。


だから、調子のいい時は、目一杯自分を広げて見られてて、ハウスを含めての「自分」

だからみんなの感情がそのまま入ってくるし、関心を持つし、一人で何人もの感情を味わうのはとても楽しい。
とてもとても楽しい。(大事なことなので)


でも、なんだか具合の悪いときは、やっぱりどうしても「シェアハウス」だし「自分」


包括して考えられない。

だから、ひとりひとりの感情をすんなり自分の中に取り込めない、つまり共感がない、つまり、やさしくなくなってしまう。

そんなときやるべきことは決まってて、一人ひとりと話し合って、きちんと自分の中に収めていくこと。

自己を拡張していくこと。

ちょっと面倒臭いと思うかもしれないけど、さっき書いたように、シェアハウスに住む人なんて、みんな大体人と生きることを選んでいる人たちだから、半分預かってもらって自分も半分もらう。
これってシェアハウスだけじゃなくて、人間関係って大体そうだけどね。
アタリマエのことだけどね。


そしてそんなゆっくりしたスピードで、シェアハウスと自己は広がっていて、こんな面倒くさい空気感で回ってる世界が、いま日本にたっっくさんあるんだって思ったら、なんだかすごくうれしくなるよね。
僕はね。

子供の頃、うしおととらを読んで、あの漫画結構人が死ぬんだけど

なすすべなく妖怪に食べられてしんでいく人たちを見て

ああ、こう言うもんだよなあとはどうしても思えずに、悲しくて怖くていっぱいになって

一人でトイレにもいけなくなっちゃって

でもこう言う気持ち忘れて行くのね、やっぱりね

いつか死ぬのが当たり前
いつか泣くのが当たり前
壊れるのも別れるのも悲しむのも当たり前で

それは悲しい気もするけど、深みにもなるから

って味覚の話だと、深みとか、ぎんなんとか、しいたけとか、なすとか美味しいなって思えるのは味覚神経が死んでるからなんだって!

悲しさも包括して人生を考える人は感情が死んでるんじゃないのって?

でもいいよね、しんでくのが当たり前


iPhoneからの投稿
だいすきなひとと、ずっといっしょにいるには、だいすきなひとにあわせてじぶんをかえていくか、じぶんにあわせてかわってくれるひとをだいすきになるか、はじめからあわせなくてもいいひとをえらぶか。その3つしかないとおもったら、とんでもなかった。

ぜんぶひつようだった。3つともぜんぶ。ひとはかえようとしなければかわらないし、かえようとしなくてもかわっていくから。

それくらい、だいすきなひととずっといっしょにいることはむずかしいことだった。だいすきなのにだいすきだから。
見たくない出来事が、あった時、見たくないけど、たしかにあった時

見なくてもいいのかもしれない

今、受け入れられるものって、結構実はあって、あるけど、一つに時間をかけ過ぎるともったいなかったりして

だから、保留。

キャパシティが、無理せず広がるのを待つ、みたいな、保留の状態

とりあえず、みたくない出来事があった時、とりあえず、放っておける案件なら、とりあえず放っておく。

それが、悪いことなのかもしれない、という考えは、捨ててしまう

出世払いだよ、いつか返すよ、ちゃんと見るよみたいな

真面目はいいことだけど、真面目すぎると、壊れるんだ

見なきゃいけないような気がするのは、あなたが真面目だから

それだけ真面目なら、放っておいていいこと、放っておいても、ないがしろにはしないと思うから、とりあえず保留しても、許してあげてもいいんじゃないかしら

雨の音とか、好きな映画とか、素敵な時間で度の合わないめがねを掛けて、ぼやかしちゃってもいいんじゃないかしら