自分を嫌いな人間に愛などあろうはずも無く、ただ与えられた役割を果たさなければならないという義務感を自らの意志として受け入れるしかなかった男。
人は初めに自分を騙(だま)す。
男も自分を騙し続けてきた。
男の感情は砂漠の砂のように掴みどころが無く、心の内側は硬く閉ざされたままだった。
僅かにのこされた感情は、自らの存在を問うためだけにあった。
「待たせたな、倉沢君」
「いいえ」
男はオリーブグリーンのリバーシブルのコートを羽織り、手には何も持っていなかった。
「歩こうか」
「はい」
二人は薄汚れた社屋のロビーから外へと出た。
僅かに春らしい風を感じながら歩道を歩き始めた。
夕日が二人の横顔を時々照らしていた。
「倉沢君」
「はい」
「なぜ江口秘書から電話があったと思う?」
「社長命令かと」
「うん。要件があるなら木村が直接電話をよこすはずだ」
「メールでもいいですよね」
「ああ」
「狸がまた何か考えている。煙たいな。少し」
「今夜、どうします?」
「まぁ、向こうの出方次第だが、こっちから提案するようなことはしない。社に持ち帰って検討するだけにする」
「わかりました。もし、もしも斉京システム側から具体的な提案が示された場合共強制的に案を呑めということですよね」
「それは提案じゃない。命令だ」
「向こうはうちより大きいしな」
「大きい小さいは関係ない」
「はい」
男は倉沢を見た。
「ところで、渡課長とはお知り合いなんですか?」
「あぁ。腐れ縁だ」
「そ、そうですか」
「あっ、それと木村には気を付けろよ」
「とても穏やかな感じの方だと思っていました」
「そいつが曲者なんだよ。言葉一つ逃さないからな!まぁいい。話している中で彼の真意を読んでみろ」
「はい」
二人は話しをしながら雑踏の中を居酒屋に向かって歩き続けた。15分程歩いてビルの隙間にひっそりと建つ木造の建物があった。
相変わらず無表情な男は居酒屋の前に着くと
「煙草買ってくるから、君先に中で待っていてくれ」
「僕買ってきましょうか?」
「いいよ。自分の煙草は自分で買う」
「はい、では中で待ってます」
「うん」
倉沢は裏木戸の中へ入っていった。
男は店に背を向け筋向いにあるコンビニに向かって歩き始めた。
交差点を斜めに横切ろうとした時、黒塗りの車のドアミラーに男の右腕が接触しそうになった。
男はとっさに交わしたが、車は急停車し運転席から女性が血相を変えて出てきた。
「お怪我は?」
「君か。怪我はない」
「すみません。急いでいたもので」
「じゃ」
「あの」
「急いでいるから」
男はコンビニ向い駆けだした。
江口は車に乗り込みハンドルを握り車を裏木戸の前に停車させた。
煙草を買い終え黒塗りの車を横目で睨み、男は裏木戸の暖簾をくぐった。
レジ前にある籐の丸椅子に腰掛け、煙草を取り出し吸い始めた。
「部長。もう先方が席に着いておられます」
「おう。そうか。一本だけ吸わせてくれ」
「はい」
倉沢は個室へ戻ろうと行きかけ、男の方に振り向き言った。
「社長秘書の江口さんもいらしてます」
男は何も返事しなかった。ただ顎を引き頷いた。
この男はレアかもしれないと倉沢は感じた。

