この空間に漂う空気。非現実的とも言える会話の中に、真実が隠されている。
互いの心に近づきながらも、覆い隠す言葉。
心に触れそうになると、彰は現実に引き戻され、葵は自信に満ちた表情を見せる。
男は夢を追う生き物だが意外に臆病、女は現実的でしかも肝が据わっているようだ。
いま思うと、彰の母もそんなところがあった。
信じた道を、ぶれることなく生き続けていたのだろう。
父への想いは色あせることもなく、あの手紙に綴られた言葉を見て、男女或いは夫婦の関係について不思議な感覚を抱き始めていた。
今、彰は葵を目の前にし彼女の心に直接触れようとした。
彰が葵に好意を抱いたことは事実だった。
初めて裏木戸で会った時、そして翌日彼女から掛かってきた電話に反応する心、更に雨降る夜、傘がアスファルトの上に舞い彼女と交わした唇と肌の感触に戸惑いながらも感情の行き場をなくしていた。
全ては、今この空間への布石だったのだろうと。
しかし、彰と葵は冷静に互いの心模様を非現実的な会話から見つめようとしていた。
それは、程よい距離が保てる半面とてもナーバスだった。
感情に任せず、分析しようとしている。
男の臆病さなのだろう。
これ以上、心に触れることをためらう自分に、彰は何かを感じ始めた。
それは、葵に対する“好き”という感情とは別に、本当に彼女の心を受け止めていいのかという心だった。
自分自身が中途半端な生活をしているという事とは別に、彼女自身が一時的にも自分に何を求めているかという疑問が、彰の頭の中で立ち上がっていた。
彰自身、彼女への自分の感情を確かめる必要かがあると思った。
誠司のように、雰囲気に流され一時の感情に任せるほど彰は器用ではなかった。
今更、この空間で考えることではないように思うが、迷いなど感じられない葵の様子を見て逆に冷静になろうとしているのかもしれない。
この空間での会話を辿ると、その内容に意味などないのかもれない。
あるのは、互いの心だけ。その感情が言葉を修飾しているだけ。
やはり、会話する前に互いの心は決まっていただろうし、話す言葉さえ頭の中で分っていた。
会話は互いに頭の中で復唱し合っているだけなのかもしれない。
なんとなくではなく、はっきりと葵に答えるべなのは分っている。
だが、言葉が続かない。
こんな時は、どう言葉を返せばいいのだろう。
彰は席を立ち上がり、夕暮れの街を眺めた。葵も席を立ち上がり二人は窓の外を眺めた。
まだ言葉は無かった。
葵は彰の左側に立ち、右手で彰の左手に触れた。静かに互いの指先が絡まり握り合っていた。
彰の肩に葵は頬を寄せながら言った。
「キスして♪」
「今?ここで」
「いや?」
「そんなことはない」
「何か足りない?何?雰囲気は満たしているわ」
「う。うん」
「分った。断らないで突然キスした方が良かった?そうでしょ」
彰は右手をポケットに入れた。
言葉の返し方に戸惑っている。
こんな時、どうして女性は大胆になれるのだろう。
胸の鼓動が高鳴り立ち尽くす彰を見て、葵はつま先立ちになり頬にキスをした。
柔らかな唇の感触が彰の全身を走った。
冷静さを失いかけた彰は、窓の外をただじっと眺めたままだった。
すると葵は彰の正面に回り彰の瞳を見つめ視界を塞いだ。
「見て。私の目を」
互いの瞳は既に潤んでいた。
もう彰の感情に押さえは利かない。
葵の身体を両腕で引き寄せ強く抱きしめていた。
葵の身体が僅かに震えていた。
これだけ、自分の感情を表現して彰の心に触れようとしている葵を、彰は愛しいと感じた。
彰の腕は葵の身体を強く引き寄せ、影は一つになっていった。
しばらく二人は動きを止め触れ合う感触に浸っていた。
心をじらす度に、互いの心は近づいていた。
彰はすでに心を決めていた。
後戻りしないと。
恋に法則があるのだろうか。
今それを互いが確かめているのかもしれない。
迷惑な芯火という恋の法則を。
窓の外から入り込む月灯りだけが、二人のシルエットを映し出していた。
詩人に言葉を託すなら、今しかないだろう。


