人間は
周囲との
関係でしか
存在を
意識できない
生きもの
最後には
いつも
自己を
主体と言い
自己とは
実体であると
叫ぶ
同じ
自我が
客体として
主体を
理解し
自覚する時
人は
愛を
見るのだろう
自己の
構造を
形成するには
自らを
肯定し
否定し
そして
拘束する
肯定は
無意識的であり
否定は
意識的かもしれない
拘束は
意志によるだろう
いずれにしても
coffeecupを
両手で包み
珈琲を
一口含む間に
人は
地球を一周し
銀河を掛け
果てしない
未来と
気の遠くなる
過去を
彷徨うことさえ
できる
人間
そこに
肯定も
否定も
拘束も
無いはず
しかし
現代の人間は
時を
機械的に
推し測り
押さえつける
nonsenseかもしれない
心ですら
誰一人
見た者は
いない
かつて
人間は
時を
掴み
心を
見る事が
出来た
人は
日々の
有り様の中で
変容し
時として
飛躍的な
扉を開く
キーを
手に入れる
ことさえ
あった
それは
誰にでもなく
何処にでもなく
いつでもなく
足元に
落ちている
栗を拾い上げるように
僅かな
棘を感じながらも
飛躍を
遂げていく
言葉は
踊り
見えぬ
心と時を
我が
ものとした
きっと
その頃の
人間の
愛は
自己の
構造に
組み込まれた
自我
そのもの
だったのかもしれない
いや
今も
君がそうだと
感じる
