今から17年程前だった。錬太郎が訪れた、この廃虚となっている温泉旅館はリアルで訪れた場所だった。。。そこには、彼が気付かない深い繋がりがあったのだった。
錬太郎は、高校を出て都心の大学へ進み、卒業後は都内のオフィス街にある国内では中堅のシステム開発会社に就職していた。
この記憶だけはなぜか作られたかのように錬太郎の心の中に残っている。
いや。。。柔らかな記憶。。。油絵のように輪郭が少しぼやけたような記憶とデジタル化でもされた機械的なデータが錯綜しているような違和感があったことは確かだった。
休日には車を走らせ、好きだった風景や草花の写真を撮りに出掛けていた。6月のある日曜日に、いつものように車にカメラと寝袋等を積み込んで目的地に向かっていた。
そう。。。小奇麗な温泉旅館がこの場所だった。その日、夕方小雨が降り始め旅館に着いたのは6時半を過ぎていた。
中に入ると一人の中居が出迎えてくれた。錬太郎と同じ歳くらいの女性であった。色白でこじんまりし、顔はふっくらしていた。着物姿の彼女の白足袋を見つめながら後についていった。
裏山と、そばに流れる渓流を一望できる8畳ほどの和室に案内してくれた。床の間には一厘の額紫陽花が飾られていた。
錬太郎は案内してくれた女性に
「ありがとう。この額紫陽花。。。僕、大好きなんですよ」
と、ポツリと低い声で言うと
「お客様も好きなんですか。。。私も大好きで。。。朝、旅館のそばを流れる渓流沿いから取ってきたものなんですよ」
微笑みながらお茶を注いでくれた。
そのしぐさが錬太郎の心に心地よい空気を感じさせた。彼女は
「大浴場の他に、窓から見えます渓流そば。。。そこに露天風呂もございます。いつでもご入浴されて結構です。夕食は今お持ちしますので、少々お待ち下さい。では。。。ごゆっくりおくつろぎ下さい。失礼致します」
頭を下げ会釈した錬太郎。彼女が入れたお茶を一口飲み外の山景色を眺めていた。
錬太郎は、食事を済ませ少し横になって寛いでいた。時計を見ると夜9時半を過ぎていた。
既に布団も敷かれ、眠るばかりになっている。錬太郎は渓流まで降りるには少し足元が暗いため大浴場へと向かった。
大浴場の中央の岩の隙間からお湯が静かに流れ出て、錬太郎の両肩にお湯が掛け流されていた。そこへ、ほっそりとした足首が湯気に見え隠れした。
白いタオルで身体を覆った女性が入って来た。
錬太郎は、ここが混浴とは知らなかった。
顔を合わせる勇気など、もちろん無くお湯に顔を浸しながら彼女に背中を向けていた。しばし沈黙が続きお湯の流れる音だけを聞いていた。
と。。。
「先ほどのお客様ですか?」
と女性が、顔を窓の外に向け月を見ながら、少し恥ずかしそうな声で話しかけてきた。この声はさっきの中居さん?そうだ。。。
「私は今日仕事が終わりましたので、少し早めにお湯を頂いていこうと思いまして。湯加減は如何ですか?」
すると錬太郎は
「あっ、はい。結構なお湯加減で。はい。。。」
錬太郎はお湯につかりながら、ガチガチになって答えた。
彼女が
「ふふっ。面白い方ですね」
湯気の中に見え隠れする月の灯りをうなじから背中に受けながら、肩を小さく揺らして笑った彼女を、錬太郎は。。。しばし。。。眺めていた。
これが、この話の始まりになっていた。。。そして。。。それらが年を経て、全てが繋がっていくのであった。
但し、限られた記憶しか錬太郎には残っていなかった。
月と湯煙が二人を包んでいた。。。その女性の名は。。。
つづく