彰の父は、その黒皮の手帳を日焼けした皺だらけの指でそっと開いた。手帳の一番最後のページに大事そうに和紙に包まれ折り畳まれた便箋を取り出した。
父は、腫れ物にでも触れるように便箋を開いた。裏木戸の店内は静まり返っていた。
便箋を開くと一枚の押し花が見えた。紫陽花の薄紫が淡く色を放っていた。
「この押し花は、妻が初めて私にくれたものだよ。私はいつもこれを持ち歩いているんだ。妻が亡くなった時、私は最後に立ち会えなかった。今でも悔やまれるが、一度たりとも彼女の姿が心から消えたことなどない」
「妻と初めて逢った時と同じ姿がここにある。人は時を重ねていくと共に心も色あせるかのように感じる。未来も過去もない、私には今も妻と共に生きている。この胸の中でな。老いて何をホザクと言われそうだが、彼女だけが孤独な俺を支え続けてきた。だから、俺は妻を、彼女を離さない。たとえ死が俺達夫婦を引き離しても、俺は妻を。。。この俺の心から引き離すことはさせない」
彰の父の言葉に三人は静かに、ただ聞き入っていた。
「君らも、歳を重ねる度自分の心の居場所がどこにあるのかを問いながら生きてきただろう。恋も重ね、結婚も。しかし、人の心は移ろう。俺は、それを咎めやしない。ただ、本当に恋をしたなら、その恋が時間と共に消え去るなんて俺には無いんだ」
「過去を思い出し、未来に胸を膨らませることは出来ても、俺達を包むのは今という現在しかない。俺達は今を生きる現在にしか存在していない。だから妻も、そして未来も、今、ここにある。俺の全ては今ここにあるんだ。たとえ地の果てへ追いやられようと、たとへ宇宙の彼方へ飛び去ろう、俺は美奈枝と共に。。。今を生きている」
「今でもこの紫陽花のしおりに指で触れれば、妻の声、しなやかな黒髪、柔らかな肌と香りさえ感じることができる。彰、お前が今どうかは知らないが、振り返る過去なんか無い。明日も、今ここにある。お前を愛する、そしてお前が本当に愛する人がそばにいるのなら、その人の心を愛せ。目に見えるものに惑わされるな。この世界は朽ち果てるだけの安ポイものばかりだが、心だけはその人間だけに許される唯一のものだ。誰も触れることのできない、決して消えることのないものだ」
父の目から小さな雫が零れた。彰は、こんな父を始めて見た。決して涙など見せない父。家族など放り投げ世界を飛び回る父。
そんな父が、母をこれほど大切に想っていたことを、愛していたことを感じた。そして、彰の目にも。。。しかし、それと距離を置くかのように憤りを感じていた。
女将は目を潤ませながらも言葉を零した。
「そう。今しかないの。恋に時間なんて関係ないの。たとえ一瞬でも恋は恋。お母様もきっと同じ気持ちよ。失礼かもしれないけれど、私には解るわ。そう思える。。。」
彰は、紫陽花の押し花を見つめながら言った。
「俺はそんな簡単に解らない。おやじ、何で今頃そんな話するんだよ。おやじが見てない母さんの苦労知ってんのか?今になって、そんなカッコつけて話しても俺は納得しないからな。そんなの俺は納得しない。。。俺の母さんは。。。」
父と女将の言葉の後に、彰は自分でも抑えきれない言葉が堰を切て流れ出た。
「母さんは、いつもおやじをかばってたよ。でも、俺は許さない。それだけ言っておく」
彰はビールの入ったコップに手を伸ばそうとした。その時、父の手帳と便箋に手が触れ床に落とした。拾い上げようとしたとき、彰は少し開かれた便箋の文字を覗き見た。そこには、母の字で書かれた言葉があった。
何も言わず彰は便箋を開き掴んだまま。。。上を見上げ。。。心から静かに声を上げた。
「おふくろ。。。。」
彰は立ち尽くし、父は紫陽花のしおりを見つめていた。誠司と女将は親子を静かに見つめていた。
つづく