63.「ウルシュ」 | 我ここに在りてここに無し

我ここに在りてここに無し

青きBOUGAの果て

ひとりごとのように

詩と小説を書き綴ります。

何か心に響くものがあれば

それだけで。



 錬太郎が恭子の目の前で消えた日、彼はどこへ、いや、確かに、見えない世界へ旅立っていた。

 少し肌寒く感じるほどの風が流れる空間だった。彼が立っていた場所、その風景を錬太郎はすぐに理解していた。

 ジョンコンスタブル 古いセーラム:JOHN CONSTABLE Old Sarum,1834(London,Victoria and Albert Museum)の水彩画そのままの風景だった。

 錬太郎は絵画が好きで、中でもこの風景画は気に入っていた。暗くて、冷たくて、灰色の雷雲、そのグレーの空の下に広がる草原。小高い丘の上にある聖堂?いや、何だろう?城?錬太郎は思った。彼の記憶に残る絵画であることは確かだが、丘の上に見えるものが違う?マウント?

 それ以前に、ここが“見えない世界”だと言えるのか?見えない世界とはいったい誰が創った世界なのか?実体はあるのか?自分の他にこの世界に入り込んだ人間はいるのか?錬太郎の頭の中に疑問符が途切れることなく立ち上がり埋め尽くされていった。

 呆然としつつも、現状を冷静に理解すべく平静を取り戻そうと錬太郎は深く息を吸い込み、そしてゆっくりと息を吐いた。

 少しすると、左隅の羊の群れの中から一人の男が近寄ってきた。羊飼いと思える男が、錬太郎に近寄り言葉を掛けてきた。

 「あなたが新しい、ウルシュですね」

と。

彼は口を動かしているようには見えなかったが、確かに言葉として錬太郎に伝達されていた。彼の肉声が耳から聞こえているという感じではなく、直接脳に語り掛けているといった方が正確かもしれない。

 錬太郎は、既視感を強く感じていた。絵画と同じ風景の中にいるということではなく、まさにデジャヴュ。錬太郎は一度この風景の中で過去に彼と会っていた。それがいつのことなのかはわからない。しかし、確かに錬太郎の記憶の中で甦ってくるのを感じていた。

 彼は、土まみれの分厚い手で、一冊の本を私に手渡した。とても古いものであることだけは理解できた。年代ものの匂いがしていた。その本を受け取り、その本から羊飼いと思われる彼に目を移そうとしたとき、既に彼は視界から消えていた。

 慎重にその本を開くと、挿絵や文字らしきものはまったく無かった。ページをめくっていくと、黄ばんだ紙切れが一枚足元に落ちた。錬太郎はそれを拾い丁寧に開いた。

 そこには、ジョージスタッブズGEORGE STUBBS A Tiger,after 1795(Worces,Mass,Free Publiv Library)の図があった。トラと一般の鳥(1795~1806)の人体構造の比較解剖学的解説からのトラ(側面図)を描いた図だった。


のんびりと



 そして、また言葉が聞こえてきた。

「最初の時。番人として、この世界と見える世界の仲立ちをせよ。

そして、見える世界の最後を救え。

 太陽と月は左から右へ回り、すべての星も同じ。

 この丘は光り輝き夜の闇を圧倒し、夜は昼と区別がなく、

 昼と夜を合わせれば住む者の一年と同じ長さになるだろう。

 星や月、太陽は一年に一度だけ昇り、また沈む。

 その時、この世界の夜明けはいつまでも続く」

 と。

 錬太郎はどう理解していいのか、この不可思議な言葉の羅列を何かに書き留めねばと思い上着の胸ポケットからメモ帳とペンを取り出し、断片的ではあるが内容を書きとめた。

 最初の時とは?太陽と月?右から左?どういうことだろう?しかも、見える世界を救えとは?錬太郎は、この虎の絵との繋がりも理解に苦しんでいた。え?虎?寅年?まさかぁ?

 とにかく、その本を携え丘の上の建物へと歩き始めた。

 見えない世界にいる錬太郎。彼はウルシュと錬太郎を呼んでいた。見ない世界での

 錬太郎の彷徨える旅が始まっていた。

つづく