女将が微笑みながら、冷酒を差し出した。
「そうねぇ、結婚って勢いだったのかもしれないわねぇ。私も一度、惚れてもいない相手と勢いで結婚したけど、今はご覧の通り♪でも、やっぱり結婚はするべきよ」
「別れても?」
「先のことなんか誰にも分からないじゃない。そんなこと気にしていたら結婚なんか出来ないわよ。これから離婚するって分かっていて結婚する人なんかいるのかしら?」
女将もそれなりに人生色々、そりゃ俺たちよりも数段苦難を乗り越えているに違いなかった。
「解かったぞ!誠司!お前は彼女と同じタイプの女性と付き合って何度も別れているけど、失敗したと思っていないんだよ。だから同じことを繰り返す。やっぱお前はカラフルバカだよ。子供なんだ」
「何言ってんだ。お前だって同じようなもんだろう」
「俺は違う。一生離婚せずに添い遂げる。あっ、そのつもり。。。だった。。。よ」
「ほら見ろ。今の生活状況はどう見たって別居だろう。離婚の一歩手前だよ。まあ、社会契約だからな。仕方ないか」
二人とも、妙に納得し合っているようにも見えるが、結婚に失敗した二人だからか、女性から言わせれば不届きな族であることには違いない。女将は、そんな彼らをも包んでくれる。まるで母親だ。大の男が甘える場所なのだろう。
「昨日の夜、編集者の人間と香水の話をしていたんだけど、フェロモンって男と女を結び付ける役目ってあるのかな?何だかあまり関係ないような気がするんだけど」
「あぁ、それ確かにあまり関係無いみたいだよ。人間の脳への情報入力の四割が視覚だからね。視覚からの情報が一番効果あるらしい」
「誠司、やっぱりお前医者なんだな。忘れていたよ」
「おいおい、失礼な奴だ」
「お二人ともお話が脱線していませんか?ほら、手を休めないでちゃんと飲んで食べてくださいね!♪」
女将の一声は絶対だが、今夜の二人は話を止められないようだ。
「彰、お前は思想とか、そんなもんあるのか?俺は無いかもしれないな」
「誠司とか俺の話をする前に、日本人に思想を求めても無理だよ。もともと日本人に思想はない」
「おい、もの書きがそんなこと言っていいのかよ」
「いいんだよ。事実だから」
「なんでだよ?」
「いいとこ取りの日本人は効率がいいんだぞ!思想なんか持ってみろ、それこそカチンかチンの堅物になって融通が利かないし、クリスマスも正月も、バレンタインもホワイトデーも無くなるぞ!いいのか?俺たちみたいな野蛮で低俗な話さえ出来なくなるんだぞ!肉だって、物によっては食べられなくなるし」
「んー、それはいかんな。いかんいかん。こんなことまで制約を受けたら俺は生きていけない!」
「お前は変なところで言葉に力が入る奴だなぁ。まぁ、わからんでもないが、日本人に思想が無いという思想がある、と言った方がいいかもしれない」
彰の話に納得する誠司の姿を見て、女将は笑った。
「日本人は、理性じゃなく感性の世界にいる傾向があるんだ。あまり突き詰めて物を考えない。もとから抽象的な話は苦手なんだよ。めんどうになるから感覚の世界で片付けるんだ。俳句とか短歌もそうだろう」
「じゃ、思想が無いのは俺だけじゃないんだな。感覚で勝負すりゃいいんだ。ほっとしたよ!」
「そこでほっとすねるかな?感覚の世界も誠司には不向きだろう。誠司の感覚の世界は偏ってるからもう少し経験をつまなきゃ。あっ、誤解すんなよ!お前に浮気の経験を積めって言ってるんじゃないから。そうじゃなく、例えば診療と女性の外に視野を広めてみたらどうかと言ってるんだ。例えば絵画とか、んー、畑仕事とかはどうだ?」
「俺のことばかり言うけど、彰はどうなんだ?殆ど俺と同じだろう。一日中家の中にいるし。俺なんか患者さんやパラメディカルスタッフと雑談も含め会話している。お前より視野は広いんじゃないのか?」
「そうか。そうだよな。俺なんか本と付き合ってるだけかもしれないな」
反論しない彰を、誠司はキョトンとした顔で見た。
「まぁ、そんなところかな」
彰は一人納得したように話を閉じた。誠司も無理に話を続けようとしなかった。女将が戸締りの準備を始めようと暖簾を携え店の中に入り引き戸を閉じようとした。その時だった。
「ありゃりゃ?お店、もう、おちまいでしゅか?」
彰と誠司の二人はその女性客を見た瞬間、目が釘付けとなった。
つづく