12. | 我ここに在りてここに無し

我ここに在りてここに無し

青きBOUGAの果て

ひとりごとのように

詩と小説を書き綴ります。

何か心に響くものがあれば

それだけで。



 さっちゃん。懐かしい響きだった。彰と誠司は、彼女の前でどちらがオナラをしたかで34年間も言い争っていた。周りから見れば、馬鹿げているとしか言えないが、本人達はいたって真剣、どちらも譲ろうとしない。そのまま歳を取り今日に至っている。幸子という女性にとってはどうでもよいことかもしれない。しかし、二人はいつまでもこだわっていた。

 まあ、中年のくだらないこだわりなど、大抵は子供の頃の偏った記憶に影響を受けている。ともあれ、年月を経ても二人にとっては憧れの君であることには違いない。気になったのは彼女の名字が、中学の時と同じだったこと。彰は、またあれこれと思いを廻らした。一つは、独身のまま過ごしていた。二つ、一度は結婚し離婚後もとの名字に戻った。三つ、お婿さんを取った。しかし、このどれもが彼女には似合わないと彰は思った。なぜそう思うのか、それは彰の偏った記憶、彼女を美化していたことによるかもしれない。

 とりあえず仕事に取り掛かった。一昨日から原稿はいっこうに進んでいなかったので、多少焦り始めていた。こんな時は、さらに進まないのが常だ。どう足掻いてもストーリーが浮かばない。そんな時は開き直るしかないのだが、今回はそんな悠長なことは言っていられない。締め切りまで後3日と近づいていたからだ。連載ものは特に厳しい。こんな時に飲みに誘う編集担当者もひどいが、その誘いを断りきれない彰も同じく意思が弱いとしか言えなかった。まぁ、それだけが理由ではないが、彰は昼飯も取らずに指をキーボードに叩きつけていた。

 夕方5時。西日が差し込む書斎。さすがに朝から打ち続けていた手を止めた。タバコに火を点け立ち上がった。窓の外に目を向けると、朝から降り始めた雨も上がり木々の雫が西日を受け光って見えた。とうとう、今日は誠司から電話が無かった。ほっとしたのと、少し寂しく感じたのと、微妙に入り混じった心がそこにあった。ゆっくりと一階のダイニングに降り冷蔵庫を開けた。お腹の足しになるようなものなどまったく入っていなかったが、冷蔵庫を無意識に開けてしまう彰だった。冷蔵庫を閉じ、時計を見た。仕方ない、もう少し我慢してから女将の店へ行こうと思った。

 ソファーに座り珍しくテレビを点けた。彰がテレビを見るとしても、いつもはニュースと天気予報くらいのもの。ニュースでは、必ずといっていいほど多様な事件・事故が伝えられる。他に政治・経済・スポーツといった定番が続く。どれも彰にとっては必要不可欠な情報なはず。しかしほとんど聞き流してしまう。

 彼の思考の根本は、現代社会の規範に対する反感かもしれなかった。自分で意識などしたことなどが無かったが、読者からは批判めいた言葉を綴った手紙を受け取ることがある。なぜそれほど社会に対し反感を抱くのか。それには少し理由がある。リスクをエネルギーにする社会など、彰にとっては、人の不幸や不安といったものを食い物にする社会と同じ感覚で捉えてしまうのだ。

 人は本当に幸せになりたいのかと疑いたくなるような社会現象に、彰は目を向け耳を傾けることさえためらいたくなる。唯一、自分の考えや意思を社会に対し見えぬようにしながら見せるという唯一の手段、それがこの小説の世界だった。人は自己満足の世界だと言うかもしれないが、これほど自分の心をさらけ出してしまうとは、そしてこれほど周囲から制約を受ける仕事とは思ってもみなかった。

 理想と現実。その隙間に自分がいる。何が真実かは、全て自分の目で見たり聞いたり触れたりしたことから脳が認識し隙間を作り、その隙間を埋めようと努力する。しかし、本当は目に見えないものを捉えようとすることこそ人間の人間である証拠かもしれない。そこに思考があると。理想と現実の隙間こそ、彰にとっては格好の隅かといえるだろう。そこに多くの題材があり、それは生きる上での課題であり、思考の宝庫なのかもしれないと感じていた。

 テレビを見ていても、結局はこんな感じで頭には何も情報は入らない。見ようとないから、結局は感覚的質感と思考的質感が立ち上がることも無く、転寝状態となるのは分かっていた。気が付くと夜の7時近くになっていた。彰はグレーのジャケットをはおり女将の居酒屋へと向かった。

 心地よい風が彰を包んでいた。


つづく