母が海外へ旅に出てから1週間が過ぎようとしていた。錬太郎はいつものように仕事を終え、ズタボロの身体を引きずりながら道に背を向け屋台で一杯。飲み終わるとゆっくり立ち上がり歩き始めた。今夜の雲は低く街を蔽い月の居場所すら分からない。街灯の光も心なしか元気がない。週末にしては人通りも疎らであった。母から聞いた話も頭の隅へ追いやられ、錬太郎はフォリナーの古くやつれたドアの向こうの空間を目指しゆっくりと靴音を響かせていた。行きかう人も車や人の声、ネオンや街灯の光さえもスローモーションのように錬太郎を包んでいた。
10分くらい歩き店から200メートルくらい手前の丁字路を左に折れようとしていた。その時「錬ちゃん♪お久しぶり♪」と背後から女性の声がした。錬太郎は振り向き「ん?誰。。。だっけ???」暫く女性の顔を眺め「あっ!恭子ちゃん?ん~えっ?やっぱり恭子ちゃんだね。よぉーっ、久しぶり。何年ぶり?元気?何?近くに用事でも?仕事で?」と心の動揺を抑えながら言葉を投げかけた〔注記:錬太郎の心の動揺は後ほど説明〕。すると恭子は「お母様から聞いてなかったの?私が錬ちゃんに話があるから会いたいって言ってたこと。」と少し小首を傾げながら錬太郎を見た。「あっ、そうだった。でも電話番号と住所は母さんに聞いてたんだろう?来るなら連絡してくれれば良かったのに?」と返した。「お母様から、錬ちゃんの週末の行動を聞いたから♪だから三軒茶屋のフォリナーのことも私ちゃんと知ってるの」と悪戯っぽく言った。母さんには参る。いったいどこまで俺のこと話したんだろう?まぁ、いっか。錬太郎は母に翻弄されるのが宿命のようである。「せっかく会いに来てくれたんだから、一緒にフォリナーに行くよね♪恭子ちゃん!」と錬太郎が言うと「はい♪もちろん!そのために来たんですもの♪終電前には帰りますよ♪」と錬太郎の左腕を遠慮がちに掴み二人は路地へと入っていった。彼女が自分にどんな話があるのか、あえて聞くこともしない錬太郎であった。月は見えず暗く静かな路地であった。
相変わらず軋むドアを、錬太郎は腫れ物にでも触れるようにそっと静かに開けた。「おほーっ。。。いらっしゃい♪」とマスターが錬太郎と後に寄り添う女性を見てニヤリとした。二人は店の奥の椅子に並んで腰掛けた。「マスター!紹介するよ。恭子ちゃん。俺の幼馴染。今、店の前の路地を出たところで偶然?会ってさぁ」と錬太郎が言うと「そんな。。。錬ちゃん、説明なんていらないですよ♪」と、また、ニヤリとしてマスターはお絞りを二つ手渡してくれた。「錬ちゃんはいつもの。あっ、レディーは何を?」とマスターが言った。すると「じゃーぁ~、ジョニー・ドラム。。。15年もの♪なんて。。。?」と彼女が言った。錬太郎はきょとんとした。するとマスターが「ヒーローたちのお酒ですね。。。ん。。。あいにく今ございません」と頭を掻いた。「代わりに。。。イライジャ・クレイグとエバン・ウィリアム。それぞれのシングル・バレル。お二つ、少しずつご賞味ください」とマスターが琥珀のボトルを二つカウンターに置いた。「えっ、マスター、いつそんなの仕入れたの?聞いてないよ!」と錬太郎は子供が拗ねるように言った。
「ボトリングの前に、樽から出されたウイスキーは樽の中のチャコールなどを除くために濾過するんです。でも、もう大分この店の空気にもなれ、今夜のお二人の心も。。。濾過されていくような気がしますので。。。お出しします。人の心へと通じる道は、きっと肝臓も経由していると思いますよ」とマスターは微笑みながらボトルをゆっくり、丁寧に開けた。
月が幾重にも波間に映る穏やかな凪の海のように、今夜はボトルの中の琥珀色の海に凪を見ているかもしれない。ゆったりと穏やかな心の凪を。彼女は琥珀が注がれたグラスを両手で暖めながら錬太郎のグラスに静かに近づけ小声で「乾杯」と呟いた。ショートヘアーの横顔から見える瞳は。。。なぜか潤んでいた。錬太郎は何も聞かぬまま、恭子も何も話さぬまま、フォリナーの夜が更けていった。
バーボンを生んだイライジャ・クレイグ牧師は間違いなくヒーロー。彼女はなぜこの名前を?錬太郎が彼女のヒーロー?まさか。。。とマスターは曲をかけ始めた。
つづく