3.「記憶」 | 我ここに在りてここに無し

我ここに在りてここに無し

青きBOUGAの果て

ひとりごとのように

詩と小説を書き綴ります。

何か心に響くものがあれば

それだけで。




「今日、仕事帰りにいつもの居酒屋で一杯飲んでたんだ。すると私より若い、そうだな~30代後半から40ってとこかな、サラリーマン風の男が深いため息をついてビールを舐めるように飲んでいたよ。少し項垂れてね」と錬太郎が言った。「で、独り言のように何かを呟いていた。聞くつもりはなかったけど、“記憶が無い!記憶が無いんだ!”という言葉だけ聞き取れたんだ。どう思う?“記憶が無いって”って呟くこと?ある?」。するとタマさんが「私なんかいつも“あれがない、これがない”って大変なのよ。“忘れた、忘れた”の繰り返しよ。このあいだなんか孫の名前も忘れちゃってて、新しいこと記憶できないみたい。解る?お二人さん。毎日少しずつ記憶が消えていっているのかしら?身体はピンピンしているのに。フフフ」と微笑んだ。

 「それって、大変でしょ!!!」と錬太郎が言った。すると「記憶って消えるもの?消えていくものなんでしょう?ねぇ、マスター。私は消えても構わないわ。だってもうこれ以上記憶する必要ないもの。もう十分よ」そう言うとまた右手の親指を立てた。立てた親指に皺がくっきり見えていた。傾いた掛け時計は
11時を過ぎていた。バーボンの水割り3杯目では異次元空間に入り込むに早すぎる。



 マスターが口を開いた。「タマさんらしいですね。確かに私も忘れ物はしょっちゅうです。今日だって買出しの内容をメモ書きし、その紙を忘れてました。だから今夜はカウンターに載せた肉じゃがだけですから。あっ、サラミもね」と袋をシュパンと開いた。無造作に皿に盛りながら「記憶って言葉はめったに使わないですよ。錬ちゃんも使わないでしょ」とサラミの盛り皿を私のほうへ手で寄せた。

 「うん、そうなんだ。“忘れた”なら使うよ。でも“記憶が無い”とは言わない。だから気になったんだと思う」錬太郎は首を傾げた。「そう、何か重い責任を伴うことに関わっているとか、本当に記憶を喪失しかけているのか、ストレスによる一過性のものとか?色々考えられるかもしれませんね」とマスターの分析が始まった。「オホホホホ、私は朝と昼、何を食べたかちゃんと覚えていますよ。だって、メニューパターンが同じだもの。フフフ」とタマさんがビールをグビッと飲むとピンクのマフラーをはずした。

 「タマさんの記憶って、どの辺までを記憶って言うの?」と錬太郎が言うと、タマさんは立ち上がり「トイレに行って戻ってくるまで。ジャンジャン。失礼♪」と言い店の奥へ消えていった。ちなみに店のトイレには“仕上げ”と書かれた紙がトイレットペーパーのホルダー上に貼ってある。仕上げが肝心とのことらしい。タマさん、仕上げをしっかり!あっ、失言でした。



 タマさんがトイレから戻ると「話はどこまで進んでいました?私の初恋?な~んちゃって♪」マフラーを巻きなおした。「タマさん、寒いの?」と錬太郎が心配そうに言うと、「あら、可愛いとこあるのね~錬ちゃん♪」。あぁぁぁ、酔ってるな。タマさんはここからがパワー全快、ギアチェンジであるが本当はスコンと眠りに落ちる一歩手前らしい。少しは年齢を考えて、等と言ったら大変なことになるのでグラスを口へ運んだ。「先ほどの“記憶がない”と言う言葉は、本来ごく当たり前のことかもしれませんよ」とマスターが静かに話し出した。



つづく



http://www.youtube.com/watch?v=jkk2mMq2x8E