前にも書いた。作家としての又吉の言葉。
泥棒が歯が痛いと可愛らしい小さな汚れをしらない女の子の歯が痛い。一般的には女の子は可哀想だと思われるし、泥棒が歯が痛いなんて自業自得だと同情はされない。
しかし、じゃあその泥棒の痛みはなかったこととして見なすべきなのか。
という発言。シャワーを浴びながら思い出した。そして思った。
金持ちで英才教育を受け、将来は大会社の社長のイスが用意されている人間。そんな人間の悩み。それは貧困で悩み明日のご飯もあるかないかわからない人間の悩みに比べてちっぽけか?
人間にはそれぞれの次元で悩みがつき回る。それが一段落したら自分でまた見つけるかの様に悩みが出てくる。
人間は悩む動物である。次元によってその次元ならではの悩みを抱える。
例に出した坊っちゃんが、次期社長のプレッシャーを抱えながら勉強する。受験をする。社長になってから、そのポストに見合う自分の器なのか悩む。会社が業績悪化し、リストラすべきか悩む。悩み眠れない夜を過ごす。
それはちっぽけか。
子供が給食をいつも残してしまう。残すたびに先生にしかられる、そして今日も先生の説教が待っている。
端から見たらどうってことないことも当事者からしたら、大変な問題だったりする。
僕も中学一年生の頃に試験の点数がいつも悪く、母親に怒られていた。ある時の試験の結果が出た時にそれが嫌で、結果だけ置いて、物置に隠れていたことがある。たかが学校の中間試験である。しかし、当時の僕には大きな問題だった。
幸い母親は迎えに来てくれて、試験のことは何も言わずに夕飯食べなと言ってくれた。何かわからないけど助かった、助けられた、と感じた記憶がある。
人は皆がそれぞれの次元で悩みを抱える。それが端から見て大きい、小さいはあまり意味を持たない。
大切なのは隣に悩んでいる人がいた時にその悩んでいる人の立場になって考えてみることかな、と思う。別に積極的に手を貸せというわけではない。ただ、その人の気持ちを考えてみる。それだけだ。そのためにも話をする、言葉をかわすということは大切だなぁ、とシャワーを浴びながら感じた。
人ではなく、人間。人と人との間、人と人との結びつき、そんなものを感じさせる名詞が人間である、とか思う。