登山家の高田直樹氏はエッセイ「なんで山登るねん」シリーズの著者でもあります。

30年以上前、雑誌「山と渓谷」に連載された同エッセイはとても面白く、当時高校生だった私は毎月夢中になって読んだものです。当時珍しかった「です・ます」調の柔らかい語り口から、私は書き手の年齢を若く身近に感じておりましたが、連載終了後にヤマケイが組んだ特集で、氏が私の父と同い年であったことを知り、とても意外に思ったことを覚えています。

 

「なんで山登るねん」にはオートバイに関する記述も多く、私が幼少期から抱いていたオートバイに関する憧れがかなり具体化されることとなりました。

エッセイ中、高田氏はなぜ自分が山に登り、オートバイに乗るのか、思考します。考えついたその理由がとても印象的でした。

 

 - ヒトは死ぬ間際にその人生を凝縮した短い映画のようなものを見るという。その時、美しい風景を心に映すため、山に登り、単車に乗るのではないだろうか。

 

なんともロマンチックな考察です。

エッセイの中で高田氏は、自分が死ぬ時に心に映す風景を「新潟県親不知の断崖」と考えていたようです。夕日に染まる日本海を見ながらオートバイで走る断崖のワインディング・ロード。その風景を実際に体験したことはありませんが、人生の最後を象徴するにふさわしく美しい風景ではないかと想像します。

 

その記述をとても印象深く感じた私は、以後、訪れた場所で美しい風景に出会うと、これこそ我が臨終の風景ではないか、と意識するようになりました。もしかしたら高田氏の記述のとおり、いろんな場所に出向くようになったのは死ぬ時に心に映す風景を求めての行動だったのかもしれません。

 

現時点での第一候補は、22歳の時にオートバイで走ったケニヤの風景です。残念ながら詳しい場所はもう忘れてしまったのですが、雲一つなく晴れた青い空と、自分の目の前に無限に続くかのように伸びるラフロードが白く輝いておりました。

気分が高揚していたせいもあるのでしょうが、ものすごい開放感があり、「死=人生からの開放」を象徴するにふさわしい風景として、心に残っています。

 

いずれ迎えることになる死の瞬間、思ったとおりの風景が果たして心に映るのか? 就寝時に夢を選べない私の素朴な疑問であります。