山でテントの周りを周回する霊の話、続編です。

20年前の9月。当時手がけていた仕事が一段落した機会に一週間の休暇をもらい、オートバイで日光の林道を走りに行ったときの話です。

湖上を渡る風は冷たく、すぐに雨が降り出す予感がありました。
テントのすぐ近くに止めたオートバイに寄りかかり、私は粗末な夕食を摂っていました。
ラジウス(携帯用コンロ)を使って調理した簡単な夕食を、コッフェルから直接スプーンで口に運んでいました。周囲の景色が美しい分、粗末な食事でも満足度は高い。

夕暮れに水色の濃さが増す中禅寺湖。
その湖面を渡る風。
チャプチャプと不規則で軽やかな音を立てる波。
そして、東からせり上がり来る暗い雨雲。

その日の午後に登ってきた「いろは坂」は濃霧に満ちており、夜にはきっと雨が降る、と、私は確信しておりました。そのためテントを張る場所は湖畔に水はけの良い砂地を選び、更にテントの周囲には、鯉は無理でも出目金ならば10匹以上は収容可能な、お堀のように立派な溝を掘っておきました。こうしておけば、雨が降ってもテントへの浸水を防げます。
準備万端。備えよ常に。
雨雲から吹き付ける風が本当に冷たく感じられるようになり、夕食を済ませた私はそそくさとテントにもぐりこみました。
たった独りの気ままなキャンプ。風は徐々に強くなり、そのうち、やはり雨もパラついてきましたが、テントの中は快適でした。
広げたシュラフ(寝袋)の上に寝そべり、スキットルに詰めてきたウィスキーを飲んでいると、昼間の運転の疲れが気持ち良くほぐされてゆきます。地図で翌日の行程を確認したあと、私は幸せな気分で眠りに就いたのです。

シュラフの中でお尻が冷たく濡れているのに気づき、眼が覚めました。
雨です。それも土砂降り。テントに当たる音から想像するに、雨滴はかなり大きいようです。
周囲に掘った雨避けの溝は雨量に負けて簡単にオーバーフローしたのでしょう、すでにテント内にも浸水していました。
風も強く、テントにかぶせて張ってあるフライ・シートが持ち上がるようにあおられています。
雷鳴も轟くように聞こえます。閃光と、それに続いて聞こえるヒステリックな轟音との間にほとんど時間差がないことから、雷雲は私のテントの真上にいるようです。
テントのそばには木立があり、そこに落雷するのではないか、と心配しました。もしくは木立に誘導された雷がテントに落ちる可能性もあります。
降雨は覚悟しておりましたが、嵐が来るとは思わなかった。
嵐の到来にもっと早く気がついていれば、どこかちゃんとした建物に避難することもできたはずですが、体内に入ったアルコールのせいで熟睡してしまい、危なくなるまで気がつかなかったのです。
屋根のあるところに逃げようにも、いま外に出れば落雷を誘導するだけでしょうし、こうなったらもうしょうがない。お尻と背中が濡れて非常に気持ちが悪い状態でしたが、私は横になったまま、嵐の通過を待ったのでした。

自分でも驚いたことに、私はそのまま再度の眠りに就いたようでした。
ふと気がつくと、嵐は治まったようで、辺りは静まり返っておりました。湖の波の、非常にひかえめな音がちゃぷりちゃぷりと聞こえる以外、何の音も聞こえません。風も吹いていないようです。
シュラフの中でライトを点して腕時計を見ると午前4時になるところでした。
さすがに砂地は水はけがよろしい。テントの中にたまっていた水はきれいに排水されたようです。背中はまだ濡れておりましたが、衣類とシュラフが体温を保ち、寒くはありません。
嵐が去ったことと、思ったほど被害がなかったことに安心し、このまま明るくなるまで静かに眠ろう、と思った時。

さく、さく、さく、さく、さく、さく。

波の音にまじって、砂を踏む足音がかすかに聞こえてきました。

(この項、更に続く)