
高遠城址
長野県伊那市
令和7年(2025年)1月8日㈬ 撮影
伊那市立高遠町歴史博物館を見たあとは高遠城址公園へ
※この記事の続きです

※高遠城
長野県伊那市高遠町(旧・信濃国伊那郡(のち上伊那郡]高遠)にあった城。別名兜山城。サクラの名所としても有名であり、特に珍しい品種であるタカトオコヒガン1,500本の樹林が名高い。国の史跡に指定されている。
築城年は不明。戦国時代の高遠城は諏訪氏一門の高遠頼継が居城としていた。1545年(天文14年)、諏訪の領有を巡りしていた。頼継は1541年(天文10年)に甲斐守護武田晴信(信玄)と頼継は対立し、高遠城は落城(高遠合戦)。高遠城はその後武田氏により改修され、信濃支配における拠点となる。
武田信玄から武田勝頼にかけて武田氏は領国を接する織田・徳川氏と対立するようになり、高遠城は対織田・徳川勢力の重要な軍事拠点となる。
1582年(天正10年)、織田信長は本格的な武田攻め(甲州征伐)を開始し、長男の織田信忠に3万の大軍を与えて高遠城に迫らせた。高遠城に籠もる守備兵の数は3千で、盛信は信忠の降伏勧告を退けて抗戦するが、守備隊は玉砕し、盛信や昌成・大学助兄弟らは戦死し、城は落城した。高遠城の落城により織田勢は伊那方面からも甲斐へ侵攻し、武田氏は滅亡した。 高遠城の西では、織田軍が攻城拠点として使ったとみられる「一夜の城」と推定される遺構が発掘されている。
武田氏の滅亡後、信濃伊那郡は織田家臣・毛利長秀が支配する。織田氏の伊那郡支配の実態は不明であるが、毛利長秀は坂西氏の居城であった下伊那郡の飯田城(長野県飯田市)に在城していることが確認される。高遠城は甲州征伐により壊滅しており織田氏時代の城主も不明で、伊那郡支配の拠点として機能していたかは疑問視されている。 同年6月に本能寺の変が起こると、甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生する。上伊那郡では諏訪氏の一族で上伊那郡福与城(長野県上伊那郡箕輪町)を拠点としていた藤沢頼親が復帰した。藤沢頼親は保科正直に攻められ、田中城で子・頼広と共に自害した。徳川家康が下条頼安・小笠原貞慶ら信濃国衆を送り込み、同年7月15日までに高遠城を奪還した。 その後は家康方の保科正直が高遠城に入った。
江戸時代になると高遠藩の藩庁となり、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主が交代した。1691年(元禄4年)に内藤清枚が3万3千石で入封。以後、高遠城は内藤氏8代の居城として明治維新を迎えた。
1872年(明治5年)廃城。廃藩置県によって高遠城は取り壊しとなり、城内の樹木は競売にかけられ売り払われたため、この場所は荒地となっていた。1876年(明治9年)、これを見かねた旧藩士たちは城跡に桜を植樹し、城下町にあった門を移すなどして公園として整備した。1936年(昭和11年)、高遠閣が完成。現在、高遠閣は観光客の休憩所、案内所として使用されているが、元々は地域の集会所として作られたものであった。

入口には料金所がありますが閉まっています。

高遠城址公園は花見シーズンのみ入場有利。
毎年4月上旬から5月上旬にかけての観桜シーズンには「高遠城址公園さくら祭り」が催され、夜間のライトアップも行われ全国から花見客が訪れる[。




法憧院曲輪



白土橋





白兎橋を渡りました。
石碑は忠骨蔵




本丸へ向います。


桜雲橋、その先に見えるのは問屋門

問屋門


問屋門を潜り

本丸跡へ


本丸跡



本丸跡に建つ太鼓櫓



本丸跡に鎮座する新城(盛信)神社






高遠公園碑


本丸跡をあとにして

再び桜雲橋を渡り

登録有形文化財 高遠閣
1936年(昭和11年)築、地域の集会所として作られたが、現在は観光客の休憩所、案内所として使用





二ノ丸跡


高遠城址公園を出て



進徳館


進徳館
高遠城内に設けられた高遠藩の藩校である。城址敷地内に現存する藩校建造物は珍しく、1973年(昭和48年)国の史跡に指定された(史跡「高遠城跡」の一部として指定)

















進徳館から坂道を下り


勘助曲輪

痛みの激しい門が



大手門跡




大手門石垣

大手門跡からの眺め

石段を下り



