令和6年(2024年)11月27日㈬
「令和6年11月下旬の旅」1日目は広島県安芸高田市に来ました。
広島バスセンターから
広島電鉄(広電バス) 上根・吉田線【72 ‐4 】
広島バスセンター1115発 吉田出張所行き
1248着の安芸高田市役所前で下車。

広島バスセンター〜安芸高田市役所前の運賃は運1,080円、乗車時間1時間33分(定時)
安芸高田市への鉄道でのアクセスは今ひとつ
※安芸高田市内を走るJR西日本芸備線の吉田口は旧高田郡の中心地である吉田町(現・安芸高田市吉田町への入口に当たる場所よりも1km程南側(広島寄り)に位置、吉田町中心地区からもかなり離れている。

バス停の近くには安芸高田市役所。
2024年に都知事選に立候補した前市長の影響安芸高田市は有名になりました。

安芸高田市、初めて訪れました。「乗り鉄」の旅をメインにしてると訪れにくい場所。
※安芸高田市(あきたかたし)
広島県の北部に位置する市。戦国大名の毛利元就の本拠地として知られ、その居城でもある郡山城が所在する。
中国地方の中部に位置する中国山地に囲まれた地域に位置する。市内に急峻な山岳はないが、鷹の巣山、大土山、犬伏山などの山々に囲まれており、小起伏の丘陵と小盆地が帯状に連なる。
2004年(平成16年)3月1日 高田郡吉田町、八千代町、美土里町、高宮町、甲田町、向原町が合併(新設合併)して安芸高田市が発足。これに伴い高田郡は消滅。市名は安芸国と高田郡にちなむ。 市役所は旧吉田町にある。

これから向かうのは安芸高田市前停留所から520m先、
安芸高田市歴史民俗博物館。
歩いている途中、小雨が降ってきました。

ゆめタウン吉田の横を通り過ぎます。
ゆめタウンは中国地方・九州地方・四国地方をエリアとする総合スーパー


安芸高田市歴史民俗博物館が見えてきました。

安芸高田市歴史民俗博物館は毛利元就の本拠地であった郡山城の麓にある、安芸高田市の歴史を紹介する博物館。毛利元就や郡山城の関係資料などを展示。


安芸高田市歴史民俗博物館には郡山城の日本100名城スタンプが設置。
今回、安芸高田市歴史民俗博物館を訪れたのはスタンプを押すためでした。

博物館前に建つ毛利元就像。


郡山城本丸跡は安芸高田市歴史民俗博物館から1.7km先


入館します。

安芸高田市歴史民俗博物館
入館料金 一般500円
開館時間 午前9時〜午後5時
休館日 ・毎週火曜日(祝・休日の場合は開館) ・祝休日の翌日 ・年末年始

安芸高田市歴史民俗博物館内に設置されている日本100名城スタンプを押しました。

御城印と

城カードを購入

館内は撮影禁止場所が多い。撮影OKのみ載せます。




安芸高田市歴史民俗博物館を出ました。雨もやみましたので

郡山城跡へ向かいます。

標高約390メートル(比高190メートル)の郡山、山頂部に本丸跡があるとのこと。
※吉田郡山城
広島県安芸高田市吉田町吉田にあった城。安芸国の戦国大名毛利氏の居城であった。城跡は「毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡」として多治比猿掛城と共に国の史跡に指定されている。
城は可愛川(江の川)と多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する郡山全山に及ぶ。築城初期は砦のような小規模な城だったが、毛利氏の勢力拡大とともに拡張され、山全体を要塞とする巨大な城郭となった。後に毛利輝元が広島城へ移るまでのあいだ居城としていた。
築城時期は不明とされるが、城内にある祇園社(正中2年(1325年)より以前の創建。現在の清神社)より後に築城されたとされる。当初の郡山城は砦程度の小規模な城で、一般的な国人領主や豪族の城と変わりなく、12代目にあたる毛利元就が入城する大永3年(1523年)までは大きな変化はなかった。元就は国人領主の盟主から戦国大名への脱皮を図り、郡山全体に城域を拡張していく。郡山全域の城郭化が始まったのは元就の晩年と考えられている。
整備が続けられた吉田郡山城内には、城主元就だけでなく、嫡子毛利隆元や一部の重臣たちの館も設けられたといい、戦時のみ城郭に籠もる従来型の山城から、平時の居館と戦時の城郭が一体化する近代的な性格を持つ城に変わった。元就の孫の毛利輝元の頃には石垣や瓦葺きなども使った近代的な城郭へと変貌した。天守は元就時代には無かったが、見張り用の櫓が本丸の最上段に建てられた。輝元時代には三層三階の天守があったともいうが詳細は不明である。天正12年(1584年)にも城の修築・城下の整備を輝元が指示しており、城下の上町を「しらかへ」にするように命じていたり、毛利氏が豊臣秀吉に従属した後に使用したと考えられる金箔瓦も出土している。 しかし、山間部の盆地に位置する吉田郡山城は交通の便も悪く、天正19年(1591年)に広島城がほぼ完成すると、吉田郡山城は毛利氏の本拠としての役割を終え、家臣や城下町の商人らは広島城下に移住した。廃城時期は、毛利氏の広島移住後の天正19年、関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600年)頃などと諸説あるが、毛利氏の本城としての役目を終えた天正19年が事実上の廃城時期と言って差し支えないと考えられる。
慶長20年(1615年)に江戸幕府が出した一国一城令により吉田郡山城も取り壊され、寛永14年(1637年)に島原の乱が起きると、キリシタンの決起を恐れた幕府によって、石垣や堀なども破却・撤去された。幕末には広島藩の支藩として広島新田藩が成立し、文久3年(1863年)に吉田郡山城の麓部分に陣屋が置かれた(吉田陣屋)。明治2年(1869年)に廃藩となり、陣屋の建物は廃され、もしくは移築された。
1990年(平成2年)、郡山山麓に吉田町歴史民俗資料館(現・安芸高田市歴史民俗博物館)が開館、毛利氏関連資料が公開された。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(72番)に選定された。
wikipediaより引用

安芸高田市歴史民俗博物館横には登山用杖が設置。
郡山城跡で撮影した画像はコチラ

つらく険しい坂でした。
山道では誰とも合わず、野生動物にも遭遇せず。

誰もいない本丸跡、あまり長居したくない。早々と山を下りました。