吉田郡山城跡

広島県安芸高田市

令和6年(2024年)11月27日㈬ 撮影


安芸高田市役所前停留所から0.7km、安芸高田市歴史民俗博物館の前に来ました。

安芸高田市歴史民俗博物館から郡山城本丸跡へは1.7km





、標高約390メートル(比高190メートル)の郡山、山頂部に本丸跡があるとのこと。

※吉田郡山城

広島県安芸高田市吉田町吉田にあった城。安芸国の戦国大名毛利氏の居城であった。城跡は「毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡」として多治比猿掛城と共に国の史跡に指定されている。
城は可愛川(江の川)と多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する郡山全山に及ぶ。築城初期は砦のような小規模な城だったが、毛利氏の勢力拡大とともに拡張され、山全体を要塞とする巨大な城郭となった。後に毛利輝元が広島城へ移るまでのあいだ居城としていた。 
築城時期は不明とされるが、城内にある祇園社(正中2年(1325年)より以前の創建。現在の清神社)より後に築城されたとされる。当初の郡山城は砦程度の小規模な城で、一般的な国人領主や豪族の城と変わりなく、12代目にあたる毛利元就が入城する大永3年(1523年)までは大きな変化はなかった。元就は国人領主の盟主から戦国大名への脱皮を図り、郡山全体に城域を拡張していく。郡山全域の城郭化が始まったのは元就の晩年と考えられている。
整備が続けられた吉田郡山城内には、城主元就だけでなく、嫡子毛利隆元や一部の重臣たちの館も設けられたといい、戦時のみ城郭に籠もる従来型の山城から、平時の居館と戦時の城郭が一体化する近代的な性格を持つ城に変わった。元就の孫の毛利輝元の頃には石垣や瓦葺きなども使った近代的な城郭へと変貌した。天守は元就時代には無かったが、見張り用の櫓が本丸の最上段に建てられた。輝元時代には三層三階の天守があったともいうが詳細は不明である。天正12年(1584年)にも城の修築・城下の整備を輝元が指示しており、城下の上町を「しらかへ」にするように命じていたり、毛利氏が豊臣秀吉に従属した後に使用したと考えられる金箔瓦も出土している。 しかし、山間部の盆地に位置する吉田郡山城は交通の便も悪く、天正19年(1591年)に広島城がほぼ完成すると、吉田郡山城は毛利氏の本拠としての役割を終え、家臣や城下町の商人らは広島城下に移住した。廃城時期は、毛利氏の広島移住後の天正19年、関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600年)頃などと諸説あるが、毛利氏の本城としての役目を終えた天正19年が事実上の廃城時期と言って差し支えないと考えられる。
 慶長20年(1615年)に江戸幕府が出した一国一城令により吉田郡山城も取り壊され、寛永14年(1637年)に島原の乱が起きると、キリシタンの決起を恐れた幕府によって、石垣や堀なども破却・撤去された。幕末には広島藩の支藩として広島新田藩が成立し、文久3年(1863年)に吉田郡山城の麓部分に陣屋が置かれた(吉田陣屋)。明治2年(1869年)に廃藩となり、陣屋の建物は廃され、もしくは移築された。
 1990年(平成2年)、郡山山麓に吉田町歴史民俗資料館(現・安芸高田市歴史民俗博物館)が開館、毛利氏関連資料が公開された。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(72番)に選定された。

wikipediaより引用
安芸高田市歴史民俗博物館の脇には郡山城跡登山用杖

「ご自由にお使い下さい」とのこと


途中には清神社への案内板

御里屋敷伝承地 

毛利元就の屋敷があったと伝わる(旧安芸高田少年自然の家「輝ら里」の敷地内)。ただし、1991年-1992年(平成3年-平成4年)の試掘調査では遺構などが見つからなかったことから、屋敷の所在地としては再検討されている。同所の敷地内には、毛利元就像と三矢の訓碑が建てられている。


安芸高田少年自然の家「輝ら里」は平成29年(2017)3月末で閉館。
毛利元就像はありました。

毛利 元就(1497‐1571)

戦国時代の中国地方(山陽道・山陰道)の武将、戦国大名。安芸毛利氏の第12代当主。。安芸国高田郡吉田荘の吉田郡山城を本拠地とした。
 策略家として知られる元就は、一代で一国人領主から勢力を伸ばして安芸・備後・周防・長門・石見・出雲の6ヶ国を支配する中国地方の大大名となった。
郡山城趾の石碑

石碑から先に進むと

整備された公園がありました、大通院谷砂防公園、 

画像左の石段を上がると毛利元就火葬場跡。

※大通院谷(だいつういんだに) 

郡山城の西にある大通院谷川には、旧石器時代から近代までの複合遺跡として大通院谷遺跡があり、高宮郡衙関連遺跡と共に毛利元就・輝元時代に作られたと思われる薬研堀や屋敷跡などが発見されている。薬研堀は、谷から南西に向けてに作られた内堀の起点となり、郡山南麓を回り込んで掘られていた
毛利元就火葬場跡



元亀2年(1571年)6月14日、毛利元就は吉田郡山城にて死去した。享年75(満74歳没)。 
初七日である6月20日、元就の葬儀が大通院で執り行れた。葬儀が終わると元就の遺体は吉田郡山城の西麓にある三日市において火葬され、6月24日に輝元が大通院の境内に築いた墳墓に元就の遺骨が埋葬された。



大通院谷砂防公園、舗装された坂道を歩きます。


















石鳥居と「毛利元就公墓所参道」と刻まれた石碑





石鳥居から先に進みます。

舗装された道ですが

ちょっと怖い、野生動物などに出会いませよように

毛利元就の墓に着きました。

周囲では立木伐採作業中、チェーンソーの音が周囲に響いています。





毛利一族墓所












毛利元就の墓の手前からは立木保全工事のため立入禁止でした。















本丸跡へは800m