
勝瑞城跡
徳島県板野郡藍住町
令和6年(2024年)10月17日㈭
JR四国高徳線の勝瑞駅から0.6km、勝瑞城跡へ

通行量の多い県道14号線の道路脇には水濠
水濠の先は勝瑞城本丸跡

勝瑞城
徳島県板野郡藍住町勝瑞(阿波国板野郡勝瑞)にあった城(平城)。平城跡と居館跡が2001年(平成13年)に国の史跡に指定され、その後の発掘で新たに確認された部分が2007年(平成19年)に追加指定された。阿波国の守護所であり、近年の発掘調査でその繁栄の一端をうかがうことができた。現在も断続的に発掘調査が行われている。
鎌倉時代から安土時代まで、淡路国、讃岐国、阿波国の政治、経済、文化の中心地として、天下の勝瑞として名をなし、日本の中世史上重要な城跡である。旧吉野川の南岸の自然堤防上に位置し、東側には今切川、南側には湿地帯に接している。現在は吉野川の本支流に囲まれた吉野川平野の低湿地帯中央部に位置するが、当時は湿地帯が多く、川幅も広く攻めにくい地形であったと思われる。海岸線も現在より内陸部にあり水上交通も便利で、紀伊水道を隔ててはいるが、京畿への往来も容易であった。当地域は暴れ川「四国三郎」の分支流の多い場所で、平地の要塞というよりも、守護の居館、政庁としての性格の強い城で、城の構えは広大であった。室町時代の守護所の様態をよく伝える貴重な遺構である。 中世地方都市としては類例をみないほど城下町が繁栄し、細川氏9代、三好氏3代の約240年の根拠地として歴史の舞台となった。 勝瑞城は、三好氏の菩提寺である見性寺の境内地にあり、城跡は東西約80m、南北約60mの方形で、周囲は幅14mの水濠が巡り、一部土塁が現存し、細川氏の守護所、三好氏の居館跡であったと思われていた。しかし、近年に行われた発掘調査によると、中富川の戦いの時に急造された詰めの城、最後の砦として築かれた可能性が指摘されている。 2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(175番)に選定された。
築城年代については諸説あるが、最も早くは承久の乱の後、阿波守護になった小笠原長清が守護所を設けたという説がある。 南北朝時代の1363年(南朝:正平18年、北朝:貞治2年)に秋月城から勝瑞城に移り、その後阿波守護細川氏・三好氏の歴史を綴ることになる。ただし、1340年(南朝:興国3年、北朝:暦応3年)に細川和氏の隠居城として築城されたとする説(『細川三将略伝』)、1338年(南朝:興国元年、北朝:暦応元年)に細川頼春が築城したとする説(『細川岡城記』)などの異説も存在する。
築城年代については諸説あるが、最も早くは承久の乱の後、阿波守護になった小笠原長清が守護所を設けたという説がある。 その後、南北朝時代の1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)1月、四国を平定した
阿波の管領細川頼之は秋月城を居城としていたが勝瑞城に移り、その後阿波守護細川氏・三好氏の歴史を綴ることになる。ただし、1340年(南朝:興国3年、北朝:暦応3年)に細川和氏の隠居城として築城されたとする説(『細川三将略伝』)、1338年(南朝:興国元年、北朝:暦応元年)に細川頼春が築城したとする説(『細川岡城記』)などの異説も存在する。
1552年(天文21年)、勝瑞城の城主は阿波国守護城主・細川氏之の重臣である三好実休は謀反をおこし、細川氏之を自害させ勝瑞城を奪取した。ここに阿波方細川氏は滅亡した。その三好実休は1562年(永禄5年)和泉国に出軍し、久米田の戦いで戦死。その子三好長治が勝瑞城の城主となった。
三好氏が織田信長の出現によって徐々に畿内より遠ざかっていき、勝瑞城でも三好長治の信望が衰えていくと、重臣たちも離れていった。1577年(天正5年)に三好長治は細川真之を奉じる小笠原成助らの軍勢に勝瑞城を追われ、同年3月に長原の地で自害して果てた。しかしこれが長宗我部氏を阿波国に誘因する結果となり、1582年(天正10年)長宗我部元親の侵攻を受け、中富川の戦いとなり長治の弟・十河存保は讃岐国に敗走し、城は同年9月21日廃城となった。
長宗我部軍によって破却された勝瑞城は徳島城築城の際に石塁や遺構の多くが持ち運ばれたという伝承が残っている。
wikipediaより引用


勝瑞城本丸跡は三好氏の菩提寺である見性寺(けんしょうじ)

※勝瑞城本丸
城域の中央部に水濠で囲まれた、三好氏の菩提寺、見性寺が残っている。長方形で一般的には「本丸」と呼ばれている。平城としては保存状態はよく、南北約60m、東西約84mで、濠の幅は埋められて狭くなっている部分もあるが16mという部分もある。濠の盛土は土塁や本丸の盛られたようで、周りの土地に比べて2-3m高くなっている。見性寺は江戸時代中期に三好氏歴代の墓を一か所に移転してきたものである。 勝瑞城跡は、三好氏の菩提寺である見性寺の境内地となっていた。1994年(平成6年)に行われた発掘調査で、城は16世紀末に造られ、短期間のうちに廃城となったことが明確になり、中富川の戦いの時に急造された詰めの城として築かれた。
wikipediaより引用


見性寺境内へ


勝瑞義家碑







続日本100名城スタンプは県道14号線を挟んだ斜め向かいにある勝瑞城館跡の勝瑞現場発掘事務所に設置

見性寺をあとにして


勝瑞城館跡 勝瑞館跡へ

※勝瑞城居館
史料等に鎌倉時代から残されている勝瑞城を明確にするため、地名の再検討、伝承の検討、明治時代初頭の地籍図、1945年(昭和20年)の米軍航空写真を使い、地割の復元をした結果、現在の本丸跡から南へ150mの地点に、東西約120m、南北約150mの方形区画が見つかった。その確認調査として藍住町教育委員会と徳島県教育委員会により1997年(平成9年) - 2000年(平成12年)まで発掘調査が行われ、濠幅約12mに囲まれた東西約120m、南北約150mであることが明確となった。この居館の構造、出土遺物の質、量から三好実休の居館跡と推定されている。本丸と呼ばれる「勝瑞城跡」と三好実休の居館跡は「勝瑞城館跡」として国の史跡に指定されている(2001年1月29日指定)。勝瑞城跡8568.38m2、勝瑞城館跡33246.96m2が指定範囲となった。また2004年(平成16年) - 2005年(平成17年)の発掘調査で、この居館から南方向に東西40m以上、南北30mの池跡が発掘された。発掘庭園としては、日本国内最大級の池庭となる。中央には岬があることから、池全体は「つ」の字のような形をしている。小さな石が州浜に敷き詰めてあり、護岸には石積みがされ、景色に演出がなされていた。
2000年(平成12年) - 2001年(平成13年)では勝瑞城館跡の東側を発掘調査行い、大規模な礎石建物跡が見つかり、館跡はこれより東側に広がる可能性が出てきた。2004年(平成16年)からは「室町ロマン勝瑞再生プロジェクト」が開始され、規模を拡大して発掘調査が行われることになった。2007年(平成19年)2月7日、館跡の東側部分8800m2が国の史跡に追加指定された。
wikipediaより引用

発掘調査が続く勝瑞城居館跡

勝瑞城居館跡に建つ
藍住町教育委員会 勝瑞事務所






展示室は藍住町教育委員会 勝瑞事務所の2階

続日本100名城スタンプを押しました。


勝瑞城の御城印は近くにある武田石油で販売

展示室から見た居館跡






復元された濠跡




勝瑞城跡から県道14号線を歩くこと0.4km

武田石油へ

御城印を購入
阿波和紙を藍染、一枚600円