篠山城跡

兵庫県丹波篠山市

令和6年(2024年)8月7日㈬


篠山口駅なら神姫バス乗り約20分の二階町へ、停留所から300m程歩くと篠山城跡が見えてきました。


*篠山城

兵庫県丹波篠山市北新町にあった城(近世城郭)。篠山盆地の中央部、笹山とよばれる小丘陵に築かれた平山城で、篠山藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。

1609年(慶長14年) - 徳川家康は、松平康重を常陸国笠間城から丹波国八上城に移し、さらに新城の築城を命じた。これは、山陰道の要衝である丹波篠山盆地に城を築くことによって、大坂の豊臣氏をはじめとする西国諸大名のおさえとするのが目的であったとされる。篠山盆地中心部の丘陵である笹山を築城地と定め、藤堂高虎が縄張を担当した。普請総奉行を池田輝政が務め、15か国20の大名の助役による天下普請により6か月で完成した。 1766年(明和3年) - 藩校「振徳堂」を建設。 以後、松井松平家一代、藤井松平家二代、形原松平家五代、青山家六代の歴代篠山藩主を経て明治を迎えた。 
 1871年(明治4年)廃城、1873年(明治6年) に城郭の建造物が取り壊され始めた。二の丸御殿の大書院(おおしょいん)も公示入札を行ったところ100円での落札が決まったが、取り壊しに多くの費用が必要なことから放置された。これを旧藩士の安藤直紀が入手し、小学校、次いで公民館へと転用されて現存した。しかし1944年(昭和19年)に失火により焼失した。  
1953年(昭和28年)頃 - 内堀が埋め立てられ、公園化が進む。  1956年(昭和31年)、国の史跡に指定される。 
2000年(平成12年)4月には二の丸御殿の中心的建物だった大書院(おおしょいん)が復元された。大書院は一般公開されている。
 2006年(平成18年) 日本100名城(57番)に選定された。 

wikipediaより引用


「史跡 篠山城跡」の碑が建つ北廊下門跡





北廊下門跡から城内へ



内堀



表門跡







中門跡



鉄門跡

鉄門跡の先には大書院



明治以降も残っていた二の丸御殿の大書院(おおしょいん)は1944年(昭和19年)の失火により焼失。
2000年(平成12年)に木造で復元された。


篠山城大書院

開館時間 9:00~17:00 ※受付終了 16:30 

休館日 毎週月曜日 年末年始(12月25日~翌年1月1日) ※祝祭日は開館、翌日休館 

入館料 大人:400円 
大書院に入ります。

大書院内に設置されている日本100名城スタンプを押しました。

ちょっと失敗

大書院内にて販売されている御城印と

城カードを購入


虎之間






手毬之間






大書院構造模型




葡萄之間


篠山城の梵鐘

説明板から引用

篠山城の梵鐘

この梵鐘は、4代藩主松平(形原)康信が、寛文12年(1672)に二世安楽を願って造り、城中の道場にかけていたものです。その後、京都の新熊野権現社や蓮華寺へと移され、大切に保管されていました。 昭和58年(1983)、多くの方々の尽力によって310年ぶりに篠山へ還ってきました。大書院が復元されたのを機に、この場所で展示することにしました









次之間



上段之間、奥に見えるのは障壁画









孔雀之間











大書院を出ました。

井戸





二の丸跡から見た大書院



二の丸跡




二の丸跡 長局









本丸跡に鎮座する青山神社

篠山城主であった青山家ゆかりの神社








本丸跡 天守台

*篠山城築城当初より天守台はあるが天守は建設されなかった。これは石垣や堀をはじめとする城の造りが堅固すぎることを幕府が懸念したためと伝えられている。実際には次に予定していた名古屋城の普請にあたり、篠山城築城に関わった助役大名のほとんどを移らせたためであり、徳川家康も必要以上に堅固としたため普請期間が伸びたと難じた。天守の建てられなかった天守台には、平櫓が南西隅に建っていた。


天守台へ
天守台から見た青山神社













天守台を下りて







埋門跡








埋門を出ました

















外堀

外堀の周辺は整備中