
令和6年(2024年)7月31日㈬
2024年7月最終日は今夏2回目の青春18きっぷ使用、新潟県新発田市に来ました。
上野〜高崎〜水上〜長岡〜新津〜新発田と高崎線・上越線・信越本線・羽越本線を乗り継ぎ。
熱い中、新発田駅から歩くこと2km、新発田城に来ました。時刻は16時近く

新発田城で撮影した画像はコチラ

陸上自衛隊新発田駐屯地内にある三階櫓は非公開、城址公園から撮影

城址公園から見える建物、白壁兵舎


*白壁兵舎
新潟県新発田市の陸上自衛隊新発田駐屯地内にある兵舎。1874年(明治7年)に、建設された。
白壁兵舎 新発田駐屯地内にある兵舎 言語 ウォッチリストに追加 編集 白壁兵舎(しらかべへいしゃ)は、新潟県新発田市の陸上自衛隊新発田駐屯地内にある兵舎。1874年(明治7年)に、建設された。
当時、日本陸軍の範とされたフランス式兵制に基づき、それでいて新発田城の廃材を利用し、日本の技術により建築されたため、日仏の技術が折衷された構造が見られる。 国内最古の現存兵舎といわれている。(現在地には、駐屯地東側から移築) 現在は史料館として利用されている。

すでに16時過ぎ、門は閉ざされていました。

柵越しに見えるのは退役したヘリ
OH-6D

白壁兵舎広報資料館
開館時間 9時〜16時
入館料 無料
休館日 月曜(祝日の場合は翌日)・年末年始
残念ながら開館時間は終了していました。

再び2km先の新発田駅方面へ向かいます。

残念ながらシャッター通り

先ほど、前を通り過ぎた諏訪神社にお参り

*諏訪神社
歴代領主の崇敬を受け、新発田の総鎮守とされる。毎年8月末に行われる例祭の新発田台輪でも知られる。
創建は大化4年(648年)と伝えられる。大和朝廷により渟足柵や磐舟柵が置かれた際、柵戸として信濃国から移住した人々が、現在の諏訪大社より分霊を勧請したのが起源とされる。当時は現在の北蒲原郡聖籠町の諏訪山に鎮座したという。 その後、新発田一帯の領主となった佐々木氏および新発田氏の崇敬を受けるようになる。この間、神社は新発田氏により諏訪山から新発田城のそばへ遷座したとも伝えられる。 江戸時代に入ると、新発田藩初代藩主溝口秀勝により新発田城内へ遷されたのち、城外での幾度かの遷座を経て、元禄元年(1688年)、四代藩主溝口重雄の時代に現在地へ遷座した。歴代藩主による篤い崇敬は町人にまで広がり、夏の祭礼は城下の最大行事として大いに賑わうようになった。 七代藩主溝口直温の時代、宝暦6年(1756年)に建立された社殿が2001年まで存在していたが、同年11月5日未明に焼失した。しかし、市民の寄付などにより2004年に社殿が再建され、現在に至っている。
wikipediaより引用

夏の夕暮れ時、静かな境内

社殿と御柱
*現在の社殿は、2001年の焼失以前の姿を模して2004年に再建されたもの。社殿は本殿、幣殿、拝殿が一棟になっており、この種の社殿としては大変大きなものである。
wikipediaより引用

社殿の前に建つ御柱
*御柱
拝殿の前に、諏訪大社より譲り受けた御柱が立てられている。これは2004年の社殿再建を期に立てられたもので、諏訪大社の御柱祭の開催に合わせ、6年おきに立て替えられる計画である。
wikipediaより引用


境内末社 稲荷神社


境内数社 五十志霊神社
新発田藩に功績のあった人々を祀る。また、無実の罪で処刑された義民・大竹与茂七も祀られている


17時近くでしたが御朱印を頂けました。

諏訪神社から徒歩数分、清水園の近くへ
左は旧新発田藩足軽長屋、中央を流れる新発田川、対岸は清水園

*清水園
江戸時代に新発田藩により造られた。近江八景を取り入れた回遊式庭園で、中央には草書体の「水」の字をかたどった池が配置されており、池の周囲には五つの茶室が点在する。また園内には「清水谷御殿」と呼ばれた簡素な数寄屋造りの書院がある。これは庭園より古くから存在する。 2003年に「旧新発田藩下屋敷(清水谷御殿)庭園および五十公野御茶屋庭園」の名称で、国の名勝に指定[1]された。
すでに17時過ぎ、入口の門は閉ざされていました。

入場料金 大人 個人 700円
開園時間 [3〜10月] 9:00〜17:00・[11〜2月] 9:00〜16:30
休園日 ・毎週火曜


清水園から道路を挟んだ向かいにある
重要文化財 旧新発田藩士足軽長屋
清水園の入園料で見学可能ですが

道路上から外郭のみ眺めます。

足軽長屋
江戸時代の新発田藩の足軽の長屋形式の住居。国の重要文化財に指定されている。所有者は財団法人北方文化博物館。
江戸時代にはこの付近に4棟あったとされるが、現存するのは1棟のみ。茅葺の8世帯向け棟割長屋である。建造年代は不明だが、棟札に「天保十三年」(1842年)の文字が残されており、同年の建造と考えられている。 昭和44年(1969年)に解体修理が行われて整備されたが、その前年まで実際の住居として人が住んでいた。前述の棟札はこの解体修理の際に見つかった。
wikipediaより引用



大蔵庭園
新発田の老舗酒蔵“王紋酒造”が運営する、日本庭園
新発田市出身の実業家 大倉喜八郎が由來

コチラもすでに入園終了

新発田駅近くの東公園を8年ぶりに訪れました。
東公園内には前回は見かけなかった建物、蔵春閣



新潟県新発田市諏訪町にある建造物。大倉喜八郎の向島別邸(東京都)の一部を成していた接待用の建物を移築したもので、2023年4月より公開されている。
大倉喜八郎は、1879年に向島の隅田川に面した場所(後の東京都墨田区堤通1丁目1番地)に別邸を構えた。蔵春閣は賓客の接待用として日露戦争後の1912年に隅田川に面して建てられた建物、伊藤博文や渋沢栄一もここを訪れた事があるという。第二次戦後の占領期に、大倉別邸は「大倉別荘」[ないし、「料亭大倉」として、占領軍将校の慰安所とされた。特殊慰安施設協会 (RAA) は、将校専用の接待施設として、大倉組の「特別の好意」を得て大倉別邸を接収したとされる[7]。また、大倉別邸には、赤線地帯とされた鳩の街のカフェー街と連続するものとしてカフェーが置かれた時期もあった。
1955年11月の千葉県船橋市の船橋ヘルスセンター(現在の三井不動産商業マネジメント)の開業後、蔵春閣は朝日土地興業(後に三井不動産と合併)によって買収され、船橋ヘルスセンター内へ移設。「長安殿」と名を変えて、中華料理店の建物として再利用された。 1977年に船橋ヘルスセンターが廃業した後、1978年に曳家によって位置を変え、ららぽーとTOKYO-BAY内の一角に、三井ガーデンホテルの付属施設「喜翁閣」(きおうかく)として残されていたが、2006年に閉鎖された。 2011年にホテルが営業終了を終了したのに伴い、2012年に大倉文化財団へ寄贈され、同年から2013年にかけて、移築を前提として解体された。
解体された部材は大倉文化財団が所有し、喜八郎の出身地である新潟県新発田市に蔵春閣の寄贈を申し出た。市は2017年秋に移築を決め、2019年2月、4ヵ所の候補地から東公園を選定した事を公表、2020年10月に着工した。2023年4月29日から一般公開された。