
新発田城
新潟県新発田市
令和6年(2024年)7月31日㈬ 撮影


アイネスしばた の先に見える旧二の丸隅櫓(左)
と辰巳櫓(右)


アイネスしばたは県立新発田病院跡地にある防災機能を持った公園,

重要文化財の旧二ノ丸辰巳櫓



右奥に見えるのは新発田城跡への入口、重要文化財の表門

新発田城
越後国蒲原郡新発田(現在の新潟県新発田市大手町)にあった城。別名、菖蒲城(あやめじょう)。新発田藩の藩庁が置かれていた。
城の北部を流れる加治川を外堀に利用した平城であり、本丸を中心に北の古丸と南の二の丸で囲い、その南側に三の丸を配する構造であった。現在は本丸の一部を除く全域と古丸全域、二の丸の一部が自衛隊駐屯地として利用され、本丸南側の石垣と堀、櫓門の本丸表門と二重櫓の二の丸隅櫓が現存。現存建築がある城跡としては新潟県内では唯一である。ほかに三階櫓や二重櫓の復元建築がある。また、石垣は本丸の表門側のみに前面乱積みの石垣がもちいられ、他は腰巻石垣や土居であったと考えられている。しかし寛文9(1669)年の大地震により、石垣が崩落しその復旧工事で、切込接布積に改められたとされる。
最初に城が築かれた時期は不明だが、鎌倉時代初期に幕府設立に戦功のあった佐々木盛綱の傍系である新発田氏による築城と考えられている。代々新発田氏の居城となっていたが、天正9年(1581年)、新発田重家が上杉景勝に対して反乱を起こした(新発田重家の乱)。天正15年(1587年)、景勝方の攻勢により新発田城は落城。大名としての新発田氏は滅亡した。 その後上杉氏の会津転封に伴い、慶長2年(1597年)、溝口秀勝が6万石の所領を得て新発田に入封。新発田藩領内を治めるための拠点として新発田重家の旧城の地を選び、新発田城の築城を行っていった。城が完全な形となったのは承応3年(1654年)、3代宣直の時代といわれる。その後寛文8年(1668年)、享保4年(1719年)に火災によって城内建築に大きな被害を受けるが、その度に再建されている。
明治時代に入り 鎮台制の施行にあたり、政府は東京鎮台第1営所に新潟を選定し、歩兵第8大隊を配備することにした。しかし城下町ではない新潟には部隊を容れられる施設がなかったため、しばらく新発田城を営所とした。新発田城が臨時の営所として使われたのは明治4年(1871年)11月から新潟営所が完成し部隊が移転した明治5年(1872年)11月までである[5]。明治6年(1873年)2月にいったんは廃城が決まったが、新潟営所が不適という理由で部隊不在のまま陸軍省管轄にとどめられた。結局1874年(明治7年)に歩兵第8大隊は新潟を引き払って高崎(現在の群馬県)に移ることになり、その一部である第2中隊が新発田城に入った。第2中隊は同年11月に歩兵第3連隊の第2大隊となり、この第2大隊が1884年(明治17年)6月に歩兵第16連隊に拡充し、敗戦まで新発田の郷土部隊となった。 長年に渡って城郭の復元を住民等に望まれ、近年より、明治初頭に撮影された古写真などを資料として考証・設計された在来の伝統的手法による復元の計画が進められ、2004年(平成16年)に三階櫓と辰巳櫓が復元され、辰巳櫓のみ、同年7月から一般公開されている。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(31番)に選定された。
wikipediaより引用

表門へ向かう前に

表門の前にある安兵衛茶屋へ
*安兵衛茶屋
新発田城の真向かいにあるお休み処、新発田市の観光情報の発信拠点として、また新発田の民芸品「金魚台輪」や銘菓などが販売。
営業時間:10:00~16:00
休館日:12月~3月

安兵衛茶屋では御城印や城カードを販売

購入したのは御城印と

城カード

安兵衛茶屋の近くに建つ堀部武庸安兵衛像

堀部 武庸(ほりべ たけつね・1670- 1703)
江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。四十七士随一の剣客であり、高田馬場の決闘で名を馳せた。吉良邸討ち入りでは江戸急進派と呼ばれる勢力のリーダー格となった。通称の安兵衛(やすべえ/やすびょうえ)で知られる。
越後国新発田藩(現在の新潟県新発田市)新発田城下の出身。浪人後に赤穂藩に仕官。
元禄15年(1703年)の「吉良邸討ち入り」に参加、
翌年の元禄16年(1703年)、切腹。

表門から新発田城内本丸跡へ向かいます。
公開時間 午前9時~午後5時
公開期間 4月~11月(12月~3月は冬季閉鎖)
入場料 無料

重要文化財 本丸表門
1732年に再建された現存の櫓門。2階に格子窓を設け、門の真上の床を外して石落としとする構造となっている。


新発田城本丸跡に建つ溝口秀勝像

溝口 秀勝(1548−1610)
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。越後国新発田藩の初代藩主。
尾張国出身、丹羽長秀、織田信長、羽柴秀吉に仕えた。
慶長3年(1598年)、越後蒲原郡新発田城(現新潟県新発田市)6万石を与えられた。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に与し、越後において上杉景勝が煽動する上杉遺民一揆の鎮圧に努めた。戦後、徳川家康から所領を安堵され、新発田藩初代藩主となる


表門脇の石段を登り

表門内へ、重要文化財を無料で見ることができます。





新発田城跡の大部分は陸上自衛隊新発田駐屯地、表門からも自衛隊の施設が見えます。



表門を出ました。




辰巳櫓へ向かいます。

本丸辰巳櫓
本丸の南東に建つ層塔型2重2階の二重櫓。本丸辰巳櫓 本丸の南東に建つ層塔型2重2階の二重櫓。
2004年(平成16年)に三階櫓とともに木造で復元された.。


辰巳櫓に入りました。





二階へ







辰巳櫓から見た城南庵と陸上自衛隊新発田駐屯地。
左に見える三階櫓は新発田駐屯地内

三階櫓は自衛隊施設内のため入れません。

休憩所の城南庵


重要文化財の旧二ノ丸辰巳櫓へ

旧二の丸隅櫓
層塔型2重2階の移築現存の二重櫓。1668年の大火後の建築。現在は、本丸鉄砲櫓の跡に移築されている。


旧二の丸隅櫓 に入りました。



階段を登ります。


二階







旧二ノ丸隅櫓を出ました。



表門を出て

堀の外から旧二ノ丸隅櫓を撮影




本丸辰巳櫓




陸上自衛隊新発田駐屯地内に建つ三階櫓
城址公園から撮影


新発田城には天守はなく、本丸の北西隅に三重櫓を上げて「三階櫓」と呼んでいた。幕府に遠慮し天守を公称しなかったが、三階櫓は新発田城における実質的な天守であった。承応3年(1654年)に創建されたものは、寛文8年(1668年)の火災により焼失し、
2004年(平成16年)に復元された姿のものは延宝7年(1679年)に再建されたものである。


