
米子城跡
鳥取県米子市
令和6年(2024年)6月20日㈭ 撮影
標高90mの湊山の山頂、米子城本丸跡に来ました。
下から見上げた大天守台
*この記事の続きです。

米子城本丸
湊山山頂に位置し、西伯耆から出雲の平野部や日本海、中海、島根半島、隠岐、中国山地が一望できる。大天守や四重櫓、二重櫓、多聞櫓、鉄御門(くろがねごもん)などが置かれた。なお、本丸までに番所跡や遠見櫓(とおみやぐら)跡などが残る。


大天守台のとなりには副天守台


大天守台へ向かいます。

米子城天守
慶長5年(1600年)に城主となった中村一忠が吉川広家の四重天守の横に建てた独立式望楼型4重5階の天守。 初重平面は10間×8間、2重目も同じ規模で、3重目は7間×6間、4重目と5重目は3間×2間半を測る[6]。外観は2重目を大入母屋破風と千鳥破風・軒唐破風、3重目には入母屋破風と千鳥破風、最上重には軒唐破風があった。5階には望楼部の外廻り縁高欄を覆ったと見られている板庇があり、特異な外観となっていた。 高さは21メートルはあったと考えられており、本城である鳥取城の天守(2重2階)や三階櫓をもしのいでいた。





大天守台への入口、

水手御門跡


大天守台からの眺め











大天守台から見た副天守台







鉄御門(くろがねごもん)跡




再び坂道を下りて



内膳丸へ

登り石垣
内膳丸と湊山山頂部の本丸遠見櫓を結ぶ尾根の上に築かれていた。江戸期の米子城絵図には登り石垣らしき構造物が描かれていたが、明治期以降、その存在は確認されていなかった。しかし、平成28年(2016年)度の発掘調査によってその存在が明らかとなった。中海側の岩盤をL字状に削り石垣を構築し、反対側の石垣の東側には土塁を構築して防御ラインを構成している。石垣の高さは3m以上で、長さは40m以上存在したと推定されている。 登り石垣に連なる内膳丸も、元々はこの登り石垣の一部と推測され、総延長は230m、築城主の吉川広家によって造られた可能性が高い。吉川広家が文禄・慶長の役に出兵しており、倭城に用いられた先進技術を取り込んだと推測される。



内膳丸
本丸に登る途中右手に分かれて登ったところにある。丸山と呼ばれ、標高52メートル。中村一忠の家老である横田内膳正村詮が担当して構築したため「内膳丸」と呼ばれる。二重櫓数棟と武器庫が設置された。横田村詮が暗殺された時、その一族が立て籠もったという記録もある。




再び坂を下りて

二の丸跡


旧小原家長屋門

二の丸枡形虎口






麓におりました。