丸岡城

福井県坂井市

令和6年(2024年)6月13日㈭ 撮影

福井駅から京福バスに乗り丸岡城に来ました。

*丸岡城

福井県坂井市丸岡町霞にあった城。別名霞ヶ城。江戸時代には丸岡藩の藩庁であった。現存12天守の一つ。史跡未指定。
福井平野丸岡市街地の東に位置する小高い独立した丘陵に築かれた平山城である。近世に山麓部分が増築され、周囲に五角形の内堀が廻らされていた。安土桃山時代に建造されたと推定される天守は重要文化財に指定されている。五角形の内堀は現在埋め立てられているが、この内堀を復元する計画が浮上している。 
「霞ヶ城」の名の由来は、合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説による。
2019年、坂井市から委嘱を受けて調査を行っていた丸岡城調査研究委員会は、現存する天守が建造された時期を江戸時代の寛永年間(1624年-1644年)と推定する報告を明らかにした。

安土桃山時代の1576年(天正4年)柴田勝家の甥である柴田勝家が勝豊が坂井平野東部の独立丘陵である丸岡に城郭を築く。
1582年(天正11年)の本能寺の変、1583年(天正11年)、柴田勝家が羽柴秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされた後は度々城主が変わった。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの後、越前国には徳川家康の次男結城秀康が入封し、丸岡城には秀康家臣の今村盛次が2万6千石を与えられ入城した。
1612年(慶長17年)、今村盛次は越前騒動で失脚。江戸幕府より付家老として福井藩に付せられた本多成重が4万3千石で新たな城主となった。 
1624年(寛永元年)、福井藩2代目の松平忠直が、不行跡を理由に豊後配流となり、福井藩に減封などの処分が下された。これにより本多成重は福井藩から独立した大名となり、丸岡藩が成立した。
 寛永年間:この頃、現在の天守が建造されたとされる。 
正保年間:この頃、現在の城郭が整備されたとされる。 
1695年(元禄8年):4代重益の治世、本多家の丸岡藩でお家騒動が起こり、幕府の裁定により改易となった(丸岡騒動)。代わって有馬清純が越後国糸魚川藩より5万石で入城。以後、有馬氏丸岡藩6代の居城となり明治維新を迎えた。 
1871年(明治4年):廃藩置県により、丸岡藩が丸岡県となり、丸岡城は丸岡県庁として利用される。その後、丸岡県は足羽県と合併。丸岡城は廃城令によって廃城となり、天守以外の城郭構造物は全て解体・移築される。 
1901年(明治34年):残された天守は、丸岡町(当時)により買い戻され、城跡は公園となった。本丸を囲んでいた堀は、明治中期から昭和初期の間に徐々に埋められ消滅した。
 1934年(昭和9年)1月30日:天守が国宝保存法(旧法)に基づく国宝に指定される。 
1948年(昭和23年):福井地震のために天守が倒壊。 
1950年(昭和25年):文化財保護法(新法)施行により天守は重要文化財に指定される
1955年(昭和30年):倒壊した天守は倒壊材の8割近くを再利用し組み直して修復される。 
2006年(平成18年)4月6日:日本100名城(36番)に選定された。

wikipediaより引用
階段を上り丘上にある天守へ

丸岡城管理事務所(券売所)の背後に見えるのは天守

丸岡城管理事務所近くに建つ

友影賢世(ともかげけんせい)像
友影賢世(1870−1970)

元丸岡町長。福井地震で被害のあった丸岡町の復興に従事。
丸岡城管理事務所の近く、上家に覆われた

牛ヶ島石棺




牛ヶ島地区の御野山古墳から出土した4世紀頃の石棺。




券売所内にあるコインロッカーに荷物を預けます。100円硬貨を投入、使用後は戻ってくるタイプ。



入城料金  大人450円 / 小人150円 / 
 
営業時間 8:30〜17:00(最終入場は16:30) 

休城日 年中無休

丸岡城入城券にて「丸岡城歴史資料館」および「一筆啓上日本一短い手紙の館」の入館も可能。

*丸岡歴史民俗資料館は令和6年(2024年)8月31日限りで閉館。
丸岡城券売所前に設置されている日本100名城スタンプを押しました。

券売所にて御城印2種類と

城カードを購入

入場券を購入した後、天守へ向かいます。
*丸岡城天守

北陸地方で現存する天守は丸岡城のみである。大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を載せた古式の外観から現存最古の天守とも呼ばれていたが、福井県坂井市教育委員会の調査で江戸期の寛永年間(1624 - 44年)に建造されたことが判明し、同委員会が2019年3月26日に発表した。 現在見られる天守は、1948年(昭和23年)の福井地震によって倒壊した後、1955年(昭和30年)に部材を70%以上再利用して組み直して修復再建されたものである。その際、最上階の窓の造りが引き戸から突き上げ窓(蔀戸)に改変されている。 独立式望楼型2重3階で、1階平面を天守台に余分を持たせて造られているため天守台を被せるような腰屋根が掛けられている。建築当初は、屋根は杮葺こけらぶき、木製漆塗りに金箔押しの鯱であった。のちに屋根瓦には越前国で産出される笏谷石製の石瓦に変更された。近代になり、1941年(昭和16年)に行われた修理や1950年(昭和30年)の再建工事では、石川県小松市にて産出する滝ケ原石へと葺き替えられた。 天守内の階段は急であり、現在、観光用の補助縄が取り付けられている。

wikipediaより引用




天守前には「お静慰霊碑」

*伝説「人柱 お静」

柴田勝豊が丸岡城を築城する際、天守台の石垣が何度も崩れて工事が進行しなかったため、人柱を立てることとなった。城下に住む貧しい片目の未亡人「お静」は、息子を士分に取り立てる事を条件に人柱となる事を申し出た。その願いは受け入れられ、お静は人柱となって土中に埋められ、天守の工事は無事完了した。しかし、柴田勝豊はほどなく移封となり、息子を士分にする約束は果たされなかった。それを怨んだお静の霊が大蛇となって暴れ回ったという。毎年4月に堀の藻を刈る頃に丸岡城は大雨に見舞われ、人々はそれを「お静の涙雨」と呼び、「堀の藻刈りに降る雨は いとしお静の涙雨」と謡われた。代々の城主が改易や厳封されたのはお静の祟りとも言われた。しかし、昭和の工事の際、天守台石垣からは人柱の証拠となるような遺構は確認されず、この逸話はあくまでも伝説として扱われている。 現在城内にはお静の慰霊碑が建てられている。

wikipediaより引用






天守階段脇にある

鯱(石製しゃち)

昭和15年〜17年の修理の際、つくられた石製の鯱、福井震災で落下、現在は天守階段脇に保管。





井戸

柴田勝豊が丸岡城築城後、
一向一揆の残党が攻撃をしかけてくることがあったわ、しかし攻め込む度に、この井戸から大蛇が現れ城に「かすみ」をかけて城の危機を救った守ったという伝説。丸岡城が別名、「霞ヶ城」と呼ばれる由来。




石段を登り




天守内に入りました











二階へ上がります。



二階





二階から三階へ上がる階段





二階から三階へ上がる階段、ロープを掴んで登るほど急



三階最上階







天守最上階からの眺め







再び一階へ





天守を出ました。