箕輪城跡

群馬県高崎市

令和6年(2024年)10月30日㈬ 撮影

高崎駅から群馬バスに乗り高崎市箕郷に来ました。

箕輪城跡へ向かいます。


箕輪小学校前には箕輪城跡の地図と

「箕輪城址入口」の石碑

箕輪小学校グラウンド脇、法峰寺参道を進み



奥に見えるのは法峰寺山門




*箕輪城(みのわじょう)

群馬県高崎市箕郷町にあった城(平山城)。国の史跡に指定されている。日本100名城の一つ。
榛名白川によって削られた河岸段丘に梯郭式に曲輪が配された平山城である。城の西には榛名白川、南には榛名沼があり、両者が天然の堀を形成していた。城地は東西約500メートル、南北約1,100メートル、面積約47ヘクタールにおよぶ広大なものであった。現在にのこる遺構として、石垣・土塁・空堀の跡が認められる

永正9年(1512年)戦国時代中期、当地を支配する長野氏の長野業尚によって築かれた。また、大永6年(1526年)業尚の子の信業によって築かれたという説もある。
永禄9年(1566年)武田軍は箕輪城への総攻撃を仕掛け、箕輪城は落城し城主・長野業盛は自刃して果てた。
武田氏の上野経営の拠点と位置づけられ、有力家臣
達が城代に任じられる。
天正10年(1582年)3月の天目山の戦いで武田氏が滅亡すると、織田信長の家臣・滝川一益が上野一国を拝領し箕輪城を接収、しかし次いで同年6月2日、信長が本能寺の変で倒れると、北条氏が上野に進行、北条氏政の弟・氏邦が箕輪城に入城した。

天正18年(1590年) 豊臣秀吉の小田原征伐の際に箕輪城は前田利家・上杉景勝連合軍の攻撃により開城した。その後、徳川家康が関東に入封し、箕輪城は12万石をもって井伊直政に与えられた。直政は箕輪城を近代城郭に改造したが、慶長3年(1598年)高崎城に移封され、それに伴って箕輪城は廃城となり、8 現代 編集 1987年(昭和62年)12月17日、国の史跡に指定された。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(16番)に選定された。なお、2016年郭馬出西虎口門が木造復元された。
水の手曲輪









ちょっと怖い坂道



薄暗い道、野生動物が出てこなければよいのですが











ようやく開けた場所に出ました。

誰もいません





郭馬出西虎口門と空堀が見えてきました。






小俣

空堀と郭馬出西虎口門









郭馬出西虎口門の手前左の階段をおります。





大堀切の土橋





郭馬出西虎口門を潜りました。


大堀切の土橋

郭馬出


土橋の先は二の丸









二の丸











本丸門馬出

本丸が見えてきました。

毎年10月の最終日曜日に開催される「箕輪城まつり」、今年は10月27日㈰に開催

まだテントが残っていました。

本丸














令和4年(2022年)完成の本丸・蔵屋敷間木橋
橋を渡ると



蔵屋敷跡

再び本丸へ

まつりの後、誰もいません。

本丸の先、御前曲輪







御前曲輪 井戸



御門曲輪西虎口門跡



御前曲輪 芭蕉句碑







御前曲輪から再び本丸へ

帰路に

二の丸からの眺め





帰路は観音様口へ







坂を下り

観音様





再び法峰寺参道に戻りました。