
一乗谷朝倉氏遺跡
福井県福井市
令和6年(2024年)6月12日㈬ 撮影
一乗谷朝倉氏遺跡の下城戸のあたりに来ました。

一乗谷朝倉氏遺跡
福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡。戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる。
遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けている。
現在の福井市街の東南方向約10km離れた、九頭竜川支流の足羽川の、さらに支流である一乗谷川沿いの谷あいにある。戦国時代の城下町と館跡、および背後の山城から構成される。 一乗谷は東西約500メートル、南北約3キロメートルと狭小だが、福井平野の端から山地に入ってすぐの場所に位置し、数キロメートル先の目前に北陸道や大野盆地(大野市)に通じる美濃街道、鹿俣峠を抜け越前府中(越前市)へ続く街道、北陸道と連絡した朝倉街道などが通る、交通の要衝をすぐ押さえられる位置であった。 一乗谷は東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7キロメートルの「城戸ノ内」に、朝倉館(武家屋敷)をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に整備された道路の両面に立ち並び、日本有数の城下町の主要部を形成していた。周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群であった。
、朝倉氏は南北朝時代には、一乗谷を本拠にしていたようである。文明年間には重臣が一乗谷に集住するようになり、また、足利将軍家の分家である鞍谷公方などもいたことから応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花した。このため北ノ京とも呼ばれた。戦国4代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超え、越前の中心地として栄えていた。1573年(天正元年)、刀禰坂の戦いにて織田信長大敗した戦国5代朝倉義景は一乗谷を放棄し大野へ逃れ、信長の軍勢によって火を放たれ一乗谷は灰燼に帰した。この戦の功績により信長から守護代職を与えられた朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)が一乗谷に館を構え、越前を統治していた。しかし、同じ旧臣である富田長繁ら国人は長俊に反感を抱いており、民衆に一揆を起こさせるべく画策した。1575年(天正3年)1月18日、吉田郡志比庄で一揆勢が蜂起、翌日には長繁を先頭に坂井郡、吉田郡、足羽郡の一揆勢3万3千人が一乗谷に攻め入り、長俊は一族もろとも討ち取られた(越前一向一揆)。信長が一揆を平定した後、越前八郡を与えられた柴田勝家は本拠を水運・陸運に便利な北ノ庄に構えたため、辺境となった一乗谷は田畑の下に埋もれていった。優れた造りの庭園も堆積する土砂に埋もれたが、1967年(昭和42年)に発掘が開始され注目されるようになった。

城戸
一乗谷を防御するため、城下町の南北に土塁を築いて城門を配した。京に近い南側は上城戸、北側は下城戸と呼ばれる。この間の約1.7キロメートルの「城戸ノ内」に朝倉館や侍屋敷などがつくられ城下町の主要部を形成していた。
下城戸
東西の山が狭まった谷の入り口に設けられた。現在は幅18メートル、高さ5メートル、長さ20メートルの土塁が残っている。枡形虎口である門跡には重さ10トン超の石が積み上げられている。なかには40トンを超す巨石もある。また、城戸の外側には幅10メートル、深さ3メートルの堀があり、かつては一乗谷川と直接繋がっていたと考えられている。

京福バスの停留所名も下城戸


土塁跡


朝倉景鏡館跡
*朝倉 景鏡(あさくら かげあきら・1525−1574)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。朝倉氏一門で、後に織田氏の家臣となる。後に織田信長から一字を貰い受け土橋信鏡(つちはし のぶあきら)と改名した。
朝倉孝景の弟・朝倉景高の子として生まれる。朝倉義景の従弟にあたる。 朝倉一族衆でも筆頭的地位であったと推定され、朝倉軍の総大将(当主名代など)として出陣することが度々あった。主に畿内から近江における織田勢との死闘や、朝倉家中での権力争いなどを経て、景鏡と当主義景の間に微妙な距離感ができたことが確認できる。
天正元年(1573年)、朝倉氏と同盟の浅井氏の小谷城を囲んだ織田軍に対する北近江出兵に際し、軍事行動の連続による疲弊を理由に出陣を拒否した。義景は自ら浅井救援に出陣するが敗れ、反対に織田信長の越前侵攻を招く(一乗谷城の戦い)。景鏡は義景に一乗谷からの撤退と自領の大野郡における再起を進言。景鏡は撤退してきた義景一行に宿舎を提供した上で、これを軍勢により包囲し、義景を自害に追い込み、その妻子を捕縛した。景鏡は義景の首級と、捕縛した母親(高徳院)・妻子・近習を信長に差し出し、降伏を許される。 後に上洛し、本領を安堵され、信長から一字を貰って名乗りを土橋信鏡と改めた。しかし天正2年(1574年)、桂田長俊を滅ぼそうと富田長繁が起こした土一揆が越前一向一揆に進展すると、一揆軍の標的にされ平泉寺に籠もるが戦死した。


朝倉景鏡館跡から下城戸跡を振り返ります。


京福バス 下城戸ノ内停留所


京福バス 一乗谷レストラン前停留所


朝倉館跡へ

唐門の先は朝倉館跡

*唐門
朝倉館跡正面の堀に面して建つ、幅2.3メートルの唐破風造り屋根の門(向唐門)。朝倉氏の遺構ではなく、のちに建てられていた松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝わる。門表には朝倉家の三ッ木瓜の紋が刻まれている。現存するものは江戸時代中期頃に再建されたものである。
wikipediaより引用



朝倉氏館跡の堀


唐門を潜り朝倉氏館跡へ

*朝倉館跡
一乗谷の中心部に位置する朝倉家当主が居住した館である。東側後背に山城があり、西、南、北の三方を高さ1.2メートルないし3メートルほどの土塁で、その外側を幅約8メートル、深さ約3メートルの堀で囲んでいる。三方の土塁にはそれぞれ隅櫓や門があった。西方にある門が正門(御門)であり、現在は唐門が建てられている。平坦部の面積は約6,400平方メートルあり、内部には17棟の建築物があった。館内最大の常御殿(東西約21.4メートル、南北約14.2メートル)を中心に、南側には主殿や会所・数寄屋・庭園・花壇など接客用の施設群が、北側には台所や持仏堂・湯殿・蔵・厩など日常生活のための施設群が存在した。建物はすべて礎石に角柱を立てて建てられており、屋根はこけら板等を葺いていたと考えられているが、鬼瓦や棟石等も発掘されている。舞良戸や明障子などの引き戸を多用し、畳を敷きつめた部屋も多かったとされる。
wikipediaより引用


建物跡


画像右に見える朝倉義景墓所へ

朝倉義景墓
朝倉館跡の東南の隅にある。1576年(天正4年)に村民が建てた小祠の場所に、1663年(寛文3年)、福井藩主松平光通が墓塔を建立した。




石段を登る前に朝倉氏庭園へ


*朝倉氏庭園
朝倉跡内の南方にある庭園。完全に埋没していたが1968年(昭和43年)に発掘された。 護岸石を館の礎石に兼用し、庭園を囲むように接客用の館が建てられていたと考えられる。庭池は数寄屋跡南の山すそにあり、滝口前方には水分石がある。滝石組が中央に配されており、付近には橋挟石と石橋の残片が遺存している。池には大きくて平らな川石が敷きつめられている。東側の急斜面には導水路があり、庭池へつづら折れに流れ落ちるようになっている。数寄屋跡西には小砂利を化粧敷きにして庭石を数個配置した枯山水がある。 ちなみに、この庭園の庭石の一部には海石である安島石(普通輝石紫蘇輝石安山岩)や青石(緑色片岩)が使われている。
wikipediaより引用







朝倉館跡を出て



復元町並へ向かいます。