
平戸城
長崎県平戸市 亀岡公園
令和6年(2024年)5月15日㈬ 撮影
平戸市内を流れる錦川に架かる幸橋(オランダ橋)を渡ります。
対岸に見えるのは幸橋御門

幸橋は重要文化財
*幸橋(幸橋)
長崎県平戸市岩の上町の鏡川に架かるアーチ橋(石橋)。国の重要文化財に指定されている。別名、オランダ橋。
かつて平戸の中心街を流れる鏡川には橋が架けられておらず、両岸を船で連絡していたが、1669年(寛文9年)に当時の平戸藩主松浦鎮信(天祥)により初めて木造の橋が架けられ、長年の不便が解消したことを祝って「幸橋」と命名された。 その後、1702年(元禄15年)に鎮信を継いだ松浦棟により同じ名前の現在の石橋に架け替えられた。この時、かつて平戸にあったオランダ商館の石造建築に携わった石工の豊前(とよさき)から伝授されてきた技法が用いられたと言われることから「オランダ橋」の別称が生まれた。 1978年(昭和53年)に重要文化財に指定された。1980年(昭和55年)より3年間にわたり修復が行われている。
形式 - 石造単アーチ橋
橋長 - 19.8m
幅員 - 5.2m
wikipediaより引用

右に見える建物は平戸市役所


昭和59年(1984年)復元の幸橋御門





平戸市役所の脇に建つ
英国商館遺址之碑
江戸時代初期の1613年〜1623年、平戸にあった英国商館を記念した石碑、英国商館があった場所はこの地ではなく境川を挟んだ対岸

以下は説明板から引用
1927年(昭和2年)「英国商館遺址之碑」は、英国商館が平戸の地に設置されていたことや、日本と英国の友好の扉を開いた関係者をしのび、その大いなる功績を讃えるため、英国商館が設置されていたであろう対岸のこの地に建立されたものです。また、記念碑は、日本在住の英国商人を中心に寄せられた寄付により建立され、同年5月29日駐日英国大使主催による「英国商館遺址之碑除幕式」が多くのご来賓の出席のもと、盛大に挙行されました。
碑には、商館開設当初の11人の商館員の名前と、「1613〜1623年の間この地の向こう岸にあった英国商館およびその館員、ならびに貿易に従事したすべての人々の記念のため」と英文で書かれています。
2013年は英国商館が平戸に設置され交流が開始されてから400周年の節目の年にあたり、官民が一体となった実行委員会が組織され、多くの皆様から頂いた協賛金により、英国商館遺址之碑が改修されました。
碑には、商館開設当初の11人の商館員の名前と、「1613〜1623年の間この地の向こう岸にあった英国商館およびその館員、ならびに貿易に従事したすべての人々の記念のため」と英文で書かれています。
2013年は英国商館が平戸に設置され交流が開始されてから400周年の節目の年にあたり、官民が一体となった実行委員会が組織され、多くの皆様から頂いた協賛金により、英国商館遺址之碑が改修されました。
2013年10月26日 平戸市・平戸英国商館設置400周年記念事業実行委員会

英国商館遺址之碑の向かいには、オランダ船錨が展示
以下は説明板から引用
オランダ船錨
大型の錨は1927年(昭和2年)に川内港から引き上げられたもので、松浦資料博物館に展示されているオランダ船錨(県指定文化財)ともよく似ており、海外貿易で栄えた平戸を実証する資料である。小型の錨は1956(昭和31)年平戸瀬戸で引き上げられたものである。
なお、一緒に展示されている方柱状の石材は、平戸の最南端に位置する宮の浦港から引き揚げられた、中国船の船錨である。
平戸市教育委員会

オランダ船錨は屋根下に展示
左の方柱状の石材は中国船の錨
中央にあるのは大型のオランダ船錨
右は小型のオランダ船錨

左が英国商館遺址之碑、中央が幸橋御門、左の屋根下にはオランダ錨が展示

平戸市役所の先、平戸城址の亀岡公園入口

石段を登ります。平戸城址に鎮座する亀岡神社の鳥居




石垣が見えてきました。

平戸城
長崎県平戸市(肥前国松浦郡平戸)にあった城。江戸時代には平戸藩松浦氏の居城であった。別名は亀岡城(かめおかじょう)、日之嶽城(ひのえだけじょう)
概要 編集 平戸島の北部、平戸市街の東部に位置する。平戸港を見下ろし、対岸の九州本土を望む平戸瀬戸に突き出た丘陵上にある。 三方を海に囲まれ天然の堀としている。丘陵の頭頂部に本丸が築かれ、その南側に二の丸、東側に三の丸が配された梯郭式の平山城である。 最初は安土桃山時代の末期に松浦鎮信(法印)によって築かれたが破却され、江戸時代中期になって再建された。再建にあたっては山鹿素行の軍学に沿って縄張りがなされたという。平山城では唯一の山鹿流による城郭である(平城である赤穂城も赤穂市の発掘調査によりその可能性が考察されている)。 城の北に平戸港を挟んで丘陵(無城時代の居館である御館)、西に道(現在の市役所を通り城下へ続く)、東に流水(平戸瀬戸)、南に低地(御厨と武学所、現在の猶興館高校)があり、天守の代用であったとされる乾三重櫓は本丸の北西に、神社(現在の市営相撲場)は鬼門に位置する山鹿流の縄張り に倣っている。
松浦鎮信(法印)は文禄・慶長の役の後、慶長4年(1599年)に現在の城地である日之嶽に最初の築城を開始した(現・平戸市岩の上町)。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの頃、徳川家康からの嫌疑を晴らすため、城の一部を破却したと伝わる。 完成も間近となった慶長18年(1613年)、火災により大半を焼失した。自ら火を放ち城を破却したとも言われているが、理由としては、豊臣氏と親交が厚かったことによる江戸幕府の嫌疑から逃れるためとも、最愛の嗣子久信の死によるものともいわれている。 火災後、藩は再建をせず、平戸港を挟んだ北側(現・平戸市鏡川町)に「中の館」と呼ばれる居館を構え、平戸藩の藩庁とした。ここには明治時代には旧藩主松浦氏の私邸が築かれた。現在は松浦史料博物館となっている。このことにより、国主それも肥前と壱岐にまたがる二国支配でありながら、平戸藩は「城」を持たない、いわゆる陣屋大名であった。
第4代藩主松浦重信(鎮信)は山鹿素行と交流があり、平戸に迎えたいと希望したが叶わず、貞享2年(1685年)に素行が亡くなってしまう。平戸藩は後に一族の山鹿高基・義昌(平馬・藤助とも)が藩士として迎えられた。 元禄15年(1702年)、鎮信(隠居により改名)は幕府に平戸城の再築城を願い出て、翌元禄16年(1703年)に許可された。江戸時代中期に築城が裁可されたのは異例であった。これは徳川家との姻戚関係と、東シナ海警備の必要性によるものと言われる。 5代藩主松浦棟によって元禄17年(1704年)2月に着工され、宝永4年(1707年)にほぼ完成した。天守は上げられず、二の丸に建てた3重3階の乾櫓をその代用としていた。上記の経緯により、平戸城は築城指導は山鹿義昌によってなされ、山鹿流軍学に基づく縄張りが構築されている。
1871年(明治4年)、廃藩置県後の廃城令により廃城となり、翌年、現存する狸櫓と北虎口門(搦手門)を残し、城の建物は解体された。
1962年(昭和37年)、模擬天守及び復興の見奏櫓、乾櫓、地蔵坂櫓、懐柔櫓が建てられた。天守内は松浦党などの資料館となっており、国の重要文化財の環頭大刀(亀岡神社蔵)も展示されている。現在の城跡は亀岡神社の境内や亀岡公園となり市民グラウンドなどの施設がある。 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(90番)に選定された。
wikipediaより引用


見上げると地蔵坂櫓


北虎口門(搦手門)
宝永4年(1707年)築

北虎口門を潜りました。
右には天守へ向かう石段と狸櫓




狸櫓(多聞櫓)
現存する藩政時代の唯一の櫓。修理の際に狸が小姓に化けて松浦藩主の寝床に来て、このまま棲まわせて欲しいと懇願したといい、以降狸櫓と呼ばれてる。

狸櫓内では店舗が営業中、買わずに中に入るのはちょっと………
中には入りませんでした。

狸櫓からさらに石段を登ります。
1962年(昭和37年)築の、模擬天守。

模擬天守は三層五階建、鉄筋コンクリート造


天守閣一階は入場券売場
券売機で入場券を購入するとQRコード付きのチケット。
入口の読み取り機にかざして中に入ります。
平戸城天守閣
開館時間 4月1日~9月30日 8:30~18:00 10月1日~3月31日 8:30~17:00
大人 520円

入場口に設置されている日本100名城スタンプを押しました。

御城印も購入