
松江城登閣案内
天守入場料 大 人 680円
入場時間 4月1日〜9月30日・ 午前8時30分~午後6時30分(受付終了 午後6時)、 10月1日〜3月31日・午前8時30分~午後5時(受付終了 午後4時30分)
本丸開放時間 (入場無料)開門時間 4月1日〜9月30日 ・午前7時~午後7時30分 10月1日〜3月31日 ・午前8時30分~午後5時

*松江城
島根県松江市殿町にあった江戸時代の城。別名千鳥城。現存天守は国宝、城跡は国の史跡に指定されている。
小瀬甫庵の縄張りによる平山城。江戸時代には松江藩の政庁として、出雲地方の政治経済の中心であった。山陰地方で唯一の現存天守であり、国宝指定された5城のうちの一つである(他は犬山城、松本城、彦根城、姫路城)。標高29メートルの亀田山に建つ天守からは宍道湖を眺望することができる。 明治時代初頭に廃城令によって松江城は陸軍省所管となり城内の建物は全て解体され売却される予定だったが、地元の有志によって天守閣だけは買い戻されて解体を免れた。近年、二の丸の櫓が復元されるなど往年の姿を取り戻しつつある。 昭和初期に城山部分は公園として開放された。
本丸は東西約54m、南北約123mの長方形で、東寄りに天守が建つ。基本的に、計6基の二層櫓が多聞櫓により結ばれていたが、鬼門にあたる北東のみは二層櫓を設けず、土塀のみを配置していた。東側の天守に対して、西側にあった鉄砲櫓は鯱をあげ、初層外側屋根上に唐破風をもうける小天守の風格ある櫓であったという。
天守は外観4重、内部5階、地下1階で、天守の南に地下1階を持つ平屋の附櫓が付属する。形式上は望楼型天守に分類され、二重の櫓の上に二重(3階建て)の望楼を載せた形になる。二重目と四重目は東西棟の入母屋造で、二重目の南北面に入母屋破風の出窓をつけている。附櫓も入母屋造である。壁面は初重・二重目は黒塗の下見板張り、三・四重目と附櫓は上部を漆喰塗、その下を黒塗下見板張りとする。南北の出窓部分の壁は漆喰塗である。屋根はすべて本瓦葺きとする。構造的には、2つの階にまたがる通し柱を多用している点が注目される。建物の中央部には地階と1階、2階と3階、4階と5階をそれぞれつなぐ通し柱があり、側柱など外側部分には1階と2階、3階と4階をつなぐ通し柱がある。1・2階平面は東西12間に南北10間あり、高さは、本丸地上より約30m(天守台上よりは22.4m)ある。窓は突上窓と火灯窓あり、2階に1階屋根を貫く形で開口した石落しが8箇所あることを特徴としている。地下の井戸は城郭建築では唯一の現存例である。最上階は内部に取り込まれた廻縁高欄があり、雨戸を取り付けている。鯱は、木製の銅板張で現存天守の中では最大の高さ約2m。現在の鯱は昭和の修理の際に作り直されたもので、旧鯱は別途保管展示されている。また、石垣は「牛蒡積み」といわれる崩壊しない城石垣特有の技術が使われている。松江城は築城より100年以上経過した江戸時代中期の元文3年(1738年)から寛保3年(1743年)にかけて大改修が行われた。改修前には千鳥破風や唐破風、漆喰壁があったとみられるが、この大改修の際に天守も改装されて、現在の松江城天守の姿になったと推測される。江戸時代制作の天守雛型が残るのは宇和島城、大洲城、小田原城、延岡城、松江城の5城(合計8つ)があり、国宝5城の内では唯一の雛型である。 松江城の本丸は有事の際にだけ使用される「詰の丸」であり、天守は倉庫として使われていた。
1607年(慶長12年) 初代松江藩主・堀尾忠氏が
末次城のあった亀田山に築城を開始。
1611年(慶長16年) 正月、松江城落成。
1633年(寛永10年) 堀尾忠晴没、嗣子なく堀尾氏は3代で改易。
1634年(寛永11年) 京極忠高が若狭国小浜藩(若狭・越前国敦賀郡)より出雲・隠岐両国26万石で入封。三の丸を造営し、ここに松江城の全容が完成した。
1637年(寛永14年) 忠高が嗣子なく没し、京極家宗家は一時廃絶(後に他国で再興される)。
1638年(寛永15年) 信濃国松本藩より松平直政が出雲18万6千石で入封。以後、明治維新まで続いた。
1871年(明治4年):廃藩置県により、廃城となる。
1873年(明治8年):廃城令が公布され、天守を除く建造物は全て撤去された。天守も売却され解体されることとなったが、地元の有志によって買い戻され、保存されることとなる。
1927年(昭和2年):所有者の松平家が天守を含む城地を松江市に寄付し、公園として開放される。 19
1935年(昭和10年):天守が当時の国宝保存法に基づく国宝(旧国宝。現行法の重要文化財に相当)に指定される。
1950年(昭和25年):文化財保護法の施行に伴い、天守は重要文化財に指定される。
1950年(昭和25年)~1955年(昭和30年) 天守の解体修理が行われた。
1960年(昭和35年):本丸一ノ門と南多聞の一部を復元。
1994年(平成6年):三の丸と二の丸を結ぶ廊下門(千鳥橋)と二の丸下段の北惣門橋(旧眼鏡橋)を復元。
2000年(平成12年):二の丸南櫓と塀(40m)を復元。
2001年(平成13年):二の丸に中櫓・太鼓櫓と塀(87m)を復元。
2006年(平成18年):日本100名城(64番)に選定された。
2015年(平成27年)7月8日:天守が国宝に指定された。
wikipediaより引用

地階から天守内へ


地階に設置されている日本100名城スタンプ

押しました。
2023年5月から(個人的に)始めた日本100名城スタンプ及び続日本100名城スタンプ集め。
今回、2年ぶりに松江城を訪れたのは日本100名城スタンプを押すため


地階は籠城に備えて塩や物資などを保管していたため塩蔵とも呼ばれていました。


地階の井戸は現存天守では唯一、天守内にある井戸。

階段を昇り一階へ


一階

天守最大柱
天守の構造的には、2つの階にまたがる通し柱を多用している。建物の中央部には地階と1階、2階と3階、4階と5階をそれぞれつなぐ通し柱があり、側柱など外側部分には1階と2階、3階と4階をつなぐ通し柱がある。地階~1階の東西2本の通し柱は天守最大の柱



階段を昇り二階へ


二階


二階から三階へ向かう階段。
奥に見えるのは、二之丸にあった太鼓櫓で使用されていた太鼓。明治時代に太鼓櫓を破却する際に見つかったもの。

三階は工事中でした。

このような状態、奥に見える階段を昇り四階へ


四階


四階から五階へ向かう階段


五階、天守最上階
「天狗の間」と呼ばれています。

天守最上階からは360度、松江の町を見渡すことができます。

中央に見えるのは二之丸上段に建つ興雲閣。
奥に見えるのは宍道湖




五階に展示されている国宝指定書の写し。原本は松江歴史館に収蔵されています。




天守を下り

外に出ました。



本丸・乾櫓跡の碑

乾櫓跡から見た天守


行きとは別の道にて本丸跡を下ります。


ほとんどの観光客が歩かないであろう道



馬洗池
馬を洗っていた池



木製の碑がありました。

「ギリギリ井戸」

松江城築城工事の際、本丸東側の石垣が幾度となく崩れ落ちた。 原因を調査すると、地下深くから錆びた槍の穂先と、それに貫かれた髑髏が出土した。丁寧に供養して工事を再開すると、そのあとの石垣は崩れることもなく完成した。 調査の際に出土した穴からは澄んだ水が豊富に湧き出し、ギリギリ井戸と呼ばれた。「ギリギリ」とは、頭のつむじを指す言葉。

ギリギリ井戸付近から見た天守





二ノ門跡


二之丸下段から見た天守

二之丸下段 馬溜



二之丸下段 井戸跡




松江城山公園入口を出て一畑電車の松江しんじ湖温泉駅へ向かいます。