
津城跡
三重県津市
令和6年(2024年)3月20日㈬ 春分の日㈷ 撮影

「津城跡北堀」と刻まれた石碑

*津城
三重県津市にあった城。別名安濃津城(あのつじょう)。三重県指定史跡。
津城は三重県津市丸之内にあり、津市街の中心部に位置する。北は安濃川、南は岩田川に挟まれ、これらを天然の大外堀としていた。江戸時代初期に築城の名手・藤堂高虎により近代城郭として大改修され津藩の藩庁となった。江戸期の津城は中央に内堀で囲まれた本丸と、それに付属して東丸・西丸があり、本丸・東・西丸を取り囲んで二の丸が配された輪郭式の平城であった。 現在の城跡は「お城公園、お城西公園」として整備されている。城跡内には高山神社が存在する。また、その他の城址には津市役所や津地方裁判所、津警察署などが建ち並んでいる。
津城の起源は戦国時代の永禄年間(1558年 - 1569年)に、細野藤光が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を構えたことに始まる。 永禄11年(1568年)織田信長の伊勢侵攻により織田掃部頭(津田一安)が入城。翌年には織田信包が入城した。信包は城郭を拡充し、石垣を普請し堀を巡らせて、本丸・二の丸・三の丸を整備した。天正5年(1577年)には5重天守と小天守を落成した。
豊臣家の時代になると、文禄3年(1594年)信包は秀吉の命により丹波国柏原へ移され、翌文禄4年(1595年)7月、豊臣家家臣の富田一白が5万石(6万石とも)を与えられ入城した。一白の子、信高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍につき、西軍方の毛利秀元・長宗我部盛親軍3万の軍勢に城を攻撃された。迎える信高と援軍にきた分部光嘉の連合軍は1,300人と劣勢であったため苦戦を余儀なくされ、城内の建造物の大半を焼失した。奮戦の末、木食応其の調停により開城となった。しかし、この奮戦により戦後、江戸幕府より2万石の加増を受けた(安濃津城の戦い)
慶長13年(1608年)信高は伊予宇和島藩に移封となり、代わって伊予今治藩より藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石をもって入城した。高虎は城の大改修に着手し輪郭式の城郭に変貌させ、城下町を整備した。以後、明治維新まで藤堂氏の居城となった。
明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、以後、建造物は破却されていった。その後、「お城公園」として本丸跡に日本庭園が整備され、昭和33年(1958年)に丑寅櫓跡に隣接する多聞櫓跡地にコンクリート製の模擬隅櫓(三重櫓)が復元された。旧来の丑寅櫓とは場所も形も全く異なっており、史実を無視した観光用の模擬櫓である。 現在本丸跡の日本庭園入口には藩校有造館の正門の入徳門が移築現存している。 平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城(152番)に選定された。





北多門櫓跡

説明板によると
北多門櫓
津城本丸の北側を守備する多門櫓である。東側に丑寅櫓、西側に戌亥櫓を接続し、桁行(長さ)約四十七間半、梁間(幅)三間という長大なものであった。内部は三間ごと十六室に区画され、有事の際は防御の拠点となるほか、平時は物資の貯蔵に供されていたと考えられる。津城は同様の多門櫓で本丸のほぼ全周が囲まれており、連続的且つ堅固な防御体制であった。




丑寅櫓、コンクリート製の模擬隅櫓(三重櫓)、昭和33年(1958年)築。

東鉄門枡形




丑寅櫓の説明板
丑寅櫓
津城本丸の東北隅に位置する櫓である。平面規模五間四方の層塔型三重三階で、同形同大の戌亥櫓とともに、城内最大の櫓であったと考えられる。
壁面には長押形を飾り、城内側にも窓を開くなど、他城では天守に相当する高い形式を備えていた。





丑寅櫓の前からみた内堀




西鉄門虎口


藤堂高虎像

大天守と小天守台



高山神社参道入口


拝殿

高山神社社務所前に設置されている続日本100名城スタンプ

押しました。




埋見門









本丸跡の日本庭園入口に建つ
津市指定文化財 入徳門
藩校有造館から移築


案内板の文
津市指定史跡 入徳門
文政三年(一八二〇)、第十代藩主藤堂高兌(たかさわ)は藩士やその子弟を教育するための藩校として有造館を創設した。その中心である講堂の正門が、この門である。
入徳門の名前は「大学は諸学徳に入る門なり」という言葉からきているといわれ、徳に入るの門と作法は厳格であった。
明治四年(一八七一)、有造館は廃校となったが、その後に創設された小学校第一校、師範 学校、津中学校、三重女学校兼附属幼稚園、 入徳幼稚園の正門として使われた。昭和二十年(一九四五)の戦災時には奇跡的に類焼は免れた。戦後は当地にあった県立図書館の正門となるも、昭和四十二年(一九六七)の同館移築により、この門のみ残された。この間入徳門は何回も場所を移り、昭和四十六年(一九七一)現在地に建てられたが老朽化がはげしくなり、昭和六十一年(一九八六)より昭和六十二年( 一九八七)にかけて保存修理工事(解体復原)を実施したものである。
昭和四十三年一月二十日指定
津市教育委員会



旧本丸跡

玉櫓(西之丸隅櫓)跡


