
令和6年(2024年)2月22日㈭
「令和6年2月下旬の旅」2日目はJR西日本学研都市線(片町線)の四條畷駅に来ました。
新祝園から乗った
5977M 新祝園1306発 区間快速 塚口行き
四條畷は式ホーム2面4線、橋上駅舎。

*四條畷駅の所在地は大阪府大東市、四條畷市域からわずかに南に外れた大東市域の北端部にあり、駅出口より約200メートル北側に進むと四條畷市域に入る。
wikipediaより引用
駅を出て太東市から四條畷市へ

駅の近くには四條畷神社の大鳥居。四條畷神社は後ほどお参りすることにします。
四條畷市は南北朝時代の「四條畷の戦い」(1348年)の地

目的地へ向かいます。その途上にあるのは

墓地のような場所、「四條畷の戦い」の史跡のようです。


和田賢秀(わだけんしゅう)墓地
*和田 賢快(わだ けんかい)は、南北朝時代の武将。『太平記』では賢秀(けんしゅう)または源秀(げんしゅう)とし登場する。
楠木正季の息子で、楠木正成の甥。湊川の戦いで伯父・父らが戦死した後、楠木一門の棟梁となった従兄弟の楠木正行に従い、共に勢力を回復していった。
正平3年(1348年)正月、四條畷の戦いで敗れ、正行らが自刃した後高師直の陣に潜入していたところをかつて味方であった湯浅本宮太郎左衛門に討たれた。 討死の際に敵将の首に噛み付き睨んで放さず、本宮太郎左衛門はそれが元で死んだとされており、土地の人々は賢秀の霊のことを歯噛様(はがみさま)、転じて歯神様として祭っている。 四條畷市の墓所石碑には、正面に『和田源秀戦死墓』と刻まれている。
wikipediaより引用


四條畷駅から約0.9km、四條畷市歴史民俗資料館に到着、住宅街の中のやや目立たぬ地

奥に見えるのは明治時代の土蔵を利用した民俗資料展示室

四條畷市歴史民俗資料館
開館時間 9時30分〜17時00分
休館日 月曜日(祝日の場合はその翌日) 年末年始(12月28日から1月4日)
入館料 無料

入口前には飯盛城跡のノボリ
飯盛城は続日本100名城に選定されています。


館内を見学

四條畷市歴史民俗資料館に設置されている
続日本100名城スタンプラリースタンプ 飯盛城
を押しました。四條畷市歴史民俗資料館を訪れたのはこのスタンプを押すためです。

四條畷市歴史民俗資料館にて販売されている飯盛城の御城印を購入

四條畷市歴史民俗資料館から1km先、四條畷神社へ向かいます。
奥に見える山は標高314.3mの飯盛山

四條畷神社は飯盛山の麓に鎮座
南朝の将として戦い、四條畷の戦いで敗死した楠木正行を主祭神としている。明治22 年(1889年)に創建。


石段を登り



2月下旬、平日午後の神社境内は参拝者も少なく静か



境内から見た四條畷市街

正行・久子母子の像 「貞仁両全」


「桜井の別れ」の像 「 忠孝両全」




御朱印を頂きました。

四條畷神社境内の奥には飯盛山登山口

飯盛城跡は標高314.3mの飯盛山山頂
*飯盛山城
河内国讃良郡飯盛山(大阪府大東市及び四條畷市)にあった城。別名「飯盛城」。
河内と大和との間には生駒山脈が南北に走り、これが国境となっている。飯盛山城は、その生駒山脈の北西支脈に位置している飯盛山に築かれている。 中世の山城としては、かなり大きな部類に属し、強固な要塞であった。全盛期には、南北に1200m、東西に500mに達し、70以上の曲輪が確認されている。
南北朝時代の建武年間(1334年 - 1338年)に築城、
正平3年(1348年)の四條畷の戦いでは、南朝方の恩地氏が飯盛山城に立て篭もったようである。この時代はまだ臨戦的陣城で、恒久的な城ではなかったと思われている。
戦国時代 の天文年間(1532−1555)に畠山義堯が河内を支配するようになり、家臣の木沢長政に命じて飯盛山に城郭を構える。この時に臨戦的陣城から恒久的な居城に改修されたと思われる。
永禄3年(1560年)三好長慶が飯盛山城に入城、[大規模な改修作業を実施し、現在の城郭になったと思われる。
天正4年(1576年)に織田信長の攻撃により落城し廃城となる。



山頂までは徒歩50分とのことですが


最初から登る気はありませんでした。麓で引き返します。

この石碑を見て満足

四條畷神社をあとにして

四條畷神社から1.1km、小楠公御墓所へ

小楠公御墓所(しょうなんこうごぼしょ)
大阪府四條畷市にる、楠木正行の墓。正平3年/貞和4年(1348年)に四條畷の戦いで正行が自害した地ま正行の父楠木正成が明治政府によって「大楠公」(だいなんこう)として神格化されたのに伴い、遺志を継ぎ命を落とした嫡男・正行も「小楠公」(しょうなんこう)として崇められるようになり、「忠君愛国」の象徴のひとつとされた。 墓所の入り口には、右手に「忠」、左手に「孝」を刻んだ石柱があり、敷地内には「楠公父子訣別之所」と記された“墓石”、「贈従三位楠正行朝臣之墓」(原文のまま、大久保利通自筆)と記された碑と、そしてクスノキの巨木(樹齢600年、大阪府指定天然記念物)がある。
