山形城跡 

山形県山形市 霞城公園

令和5年(2023年)11月4日㈯ 撮影

山形城

山形県山形市霞城町にあった日本の城。別名は霞城(かじょう)、霞ヶ城(かすみがじょう)と呼ばれる。日本100名城に選定されている。


南朝:正平11年/北朝:延文元年(1356年)に斯波兼頼が羽州探題として山形に入部し、南朝:正平12年/北朝:延文2年(1357年)初期の山形城が築城される。以後、出羽斯波氏は最上氏を名乗り、最上氏本宗家の居城となった。最上義光が、慶長年間に城郭を拡大し三の丸を構築、家臣団の屋敷が置かれた。さらに城下町を整備し、慶長出羽合戦で得た出羽57万石の本城となる。 
元和8年(1622年)に最上氏が改易された後、鳥居忠政により改修がなされた。鳥居氏以後もたびたび藩主家の変更があったが、格式・規模が次第に低下したため、江戸中期以降は城の維持が困難になった。幕末には御殿は二の丸に置かれ、本丸は更地で、三の丸の西半分は田畑になっていた。
 明治3年(1870年)に山形藩が転封となったとき、長く使われずにいた城郭は大破し、外壁・矢倉も風雪に耐えかねる状態であった。 城が売りに出されると、山形市が購入し、陸軍の駐屯地を誘致した。歩兵三十二連隊の兵営敷地となり、城内の櫓や御殿は破却され、本丸は埋め立てられた。三の丸の堀も埋め立てられ耕作地として利用された。  第二次大戦後、二の丸の内側は霞城公園になり、二の丸の外側は市街地化が進み、三の丸の濠も埋め立てられた。 昭和61年(1986年) 国の史跡に指定され、江戸末期の資料に基づいて、東追手門や本丸の復元が行われる。 平成3年(1991年) 二の丸東大手門が修復及び復元される。この門の規模は江戸城の城門に匹敵する。 平成18年(2006年) 本丸の正門に当たる一文字門に架かる大手橋が復元される。 平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(10番)に選定される。 平成25年(2013年) 本丸大手門枡形内の高麗門及び土塀が復元され翌年8月から公開が始まった。 

平成3年(1991年) に復元された二ノ丸東大手門から霞城公園に入ります。



木造の東大手橋


東大手橋の下は外濠とJR奥羽本線の線路











二ノ丸東大手門と最上義光像




歩兵三十二連隊跡の石碑



山形城の石垣


本丸 

明治時代に埋め立てられた本丸は平成に復元


本丸一文字門と大手橋
本丸へ向かう入口は閉ざされていました。
本丸内の公開は4月中旬〜10月中旬

訪問日は11月4日、本丸内は見れませんでした。
















二ノ丸南大手門へ向かいます。




二ノ丸南大手門




二ノ丸南大手門跡跡

二ノ丸南大手門から見た外濠

約600m先の山形駅へ向かいます。