
錦帯橋
山口県岩国市
令和5年(2023年)10月11日㈬ 撮影


*錦帯橋
山口県岩国市の錦川に架橋された、5連の木造アーチ橋である。全長193.3m、幅員5.0mで、主要構造部は継手や仕口といった組手の技術によって、釘は一本も使わずに造られている。石積の橋脚に五連の太鼓橋がアーチ状に組まれた構造で、世界的に見ても珍しい木造アーチ橋として知られる。
日本三名橋や日本三大奇橋に数えられており、名勝に指定されている。
1673年(延宝元年)に、岩国藩主吉川広嘉によって建造された。初代岩国領主の吉川広家が岩国城を築城して以来、岩国城と錦川を挟んだ対岸にある城下町をつなぐ橋は数回架けられているが、錦川の洪水により流失していた。3代領主の広嘉は、洪水に耐えられる橋を造ることに着手する。広嘉がある日、かき餅を焼いていたところ、弓なりに反ったかき餅を見て橋の形のヒントを得たという。また、明の帰化僧である独立性易から、杭州の西湖には島づたいに架けられた6連のアーチ橋があることを知り、これをもとに、連続したアーチ橋という基本構想に至ったともいわれている。アーチ間の橋台を石垣で強固にすることで、洪水に耐えられるというのである。
錦帯橋建造翌年の延宝2年(1674年)、洪水によって石の橋脚が壊れ、木橋も落ちてしまったので、同年、家来に石垣の研究をさせて橋台の敷石を強化し再建した。この改良が功を奏し、その後は昭和期まで250年以上流失することなく定期的に架け替え工事が行われ、その姿を保った。 なお、橋は藩が管理し、藩内では掛け替え・補修の費用のために武士・農民など身分階級を問わず「橋出米」という税が徴収されていた。ただし当時、橋を渡れるのは武士や一部の商人だけで、一般の人が渡れるようになるのは明治に入ってからであった。
明治時代になり橋を管理していた岩国藩が消滅すると、1895年に地元有志による「錦帯橋保存会」が設立され、掛け替え資金の募集を行うようになる。 1922年3月、史蹟名勝天然紀念物保存法により名勝の指定を受ける。 1950年(昭和25年)9月14日、折からのキジア台風により第四橋の橋脚から崩壊し、
276年間流されなかった錦帯橋はほぼ完全に流失してしまう。 翌1951年から復旧工事が始まり、1953年(昭和28年)に再建が完了。コンクリート製での再建案もあったが、市民の求めで木製で再建された。 2001年(平成13年)より2004年(平成16年)に26億円をかけて、約50年ぶりに橋体部分の架け替え工事が行われた。 2005年(平成17年)9月6日から翌7日にかけて九州北部・山陰沖を通過した台風14号により、第一橋の橋脚2基が流失した。後に約4000万円かけて復旧工事が行われ今に至る。
1966年以降は、観光客から「入橋料」を徴収し、掛け替え・管理の財源に充てられるようになった。「通行料」ではなく、往復同額である。 料金所の営業時間は8時から17時まで(夏期は19時まで)で、それ以外の時間帯では、夜間料金箱に料金を入れて渡るようになっている。 渡橋自体は、24時間可能である(夜間ライトアップは22時まで)。
wikipediaより引用
