長篠城跡 愛知県新城市

令和5年(2023年)8月10日㈭ 撮影 

飯田線長篠城駅から 長篠城跡に到着。

*長篠城

三河国設楽郡長篠(愛知県新城市長篠)にあった城。特に天正3年(1575年)の長篠の戦いに先立つ長篠城をめぐる攻防戦で知られる。
地形変化の境目となるこの場所は、東三河と長野県方面と、静岡県と岐阜県方面の各所に至る陸上交通や東三河と河川の豊川で結ぶ水上交通が交わる交通の要所であった。
永正5年(1508年)、三河国設楽郡に地盤を持つ菅沼氏の菅沼元成が築城。長篠菅沼氏が徳川家康に服属していた元亀2年(1571年)、武田信玄による三河侵攻の一端として攻められる。陥落は免れたかわ長篠城は武田軍方となる。
 天正元年8月(1573年)、徳川軍により開城、徳川家の城となり、徳川家康は武田軍の再侵攻に備えて、長篠城をさらに拡張し、防御力を高めた。(現在に残る本丸の大規模な土塁などはこの時のものと考えられている。)
天正3年、武田勝頼が1万5千の兵を率いて長篠城を取込んだことによって長篠の戦いが始まった。 天正4年(1576年)奥平信昌が新城城を築城し、長篠城は廃城になったとされる。

wikipediaより引用

長篠城帯曲輪跡に建つ「新城市立長篠城址史蹟保存館」


長篠城は日本100名城
長篠城史跡保存館の館外には日本100名城スタンプが設置、ヨコにあるコインロッカーに描かれているのは磔にされた鳥居強右衛門
の日本100名城スタンプは長篠城址史跡保存館の館外に設置、横にあるコインロッカーには磔にされた鳥居強右衛門

長篠城の日本100名城スタンプ、逆さまに押してしまいました。

長篠城址史跡保存館の観覧料は220円

館内は個人で楽しむ分は撮影可能(一部禁止)、ですが ネットやSNSなどに掲載は禁止。 

よって館内で撮影した画像はありません。
長篠城史跡保存館にて購入した御城印

空堀


本丸跡へ

本丸跡






本丸跡のすぐ脇を走る飯田線の線路
線路を挟んだ向いの鳶ケ巣山は武田軍ほ陣地跡


特急 伊那路 が通過



渡合

左側には寒挟川、右側には宇連川が流れ、合流地点の断崖に長篠昨年が築かれていた。 向かいに見える箸は牛渕橋


長篠城本丸跡の碑




本丸跡の土塁に登ります。


土塁上には松の切株と石碑

説明板には

久邇宮邦良子女王「御手植えの松」

 この黒松は、久邇宮良子女王殿下が大正7年(1918)3月17日、父邦彦王、母俔子妃の3人で設楽原決戦場視察の後、長篠城址を視察し、御台臨記念として植えた松である。当時の記録によれば、3人は城址で桑園になっていた本丸に散在する焼き米を拾い、鳥居強右衛門が脱出した場所に立ち往時を追懐していたとある。良子女王殿下の服装は、この時のお召列車の車掌であった浦野金蔵氏の記録によると「矢がすりの和服」であったという。 

説明板より引用



赤い鳥居の先には
土塁はここまで、祠の跡のような台座
土塁上にあった城藪稲荷様(おとら狐)は城址整備のため近くの大通寺境内。
城藪稲荷様跡から見た飯田線の線路