8月3日㈭

根岸線に乗り大船に来ました。横浜線からの直通列車900kは終点の大船909着

大船からは横須賀線

662F   大船923発 逗子行き

に乗車、929着の鎌倉で下車

久しぶりの鎌倉、横浜市南部の我が家から近いのに最近はご無沙汰

鎌倉で下車するのは昨年1月の江ノ電乗車以来



今回は江ノ電には乗らず小町通りを歩きます。

朝9時代では多くの店は開店前、まだ観光客は少ない
鶴岡八幡宮に来ました。


舞殿
61段の石段を登ると桜門、その奥は本殿

重要文化財の桜門
外側から見た廻廊

桜門の前から見た舞殿
授与所で頂いた御朱印。


鶴岡八幡宮の境内東側にある鎌倉国宝館には入館せず通り過ぎます。
昭和3(1928)年築の鎌倉国宝館は登録有形文化財

源平池、蓮に覆われています。
鶴岡八幡宮から源頼朝の墓は約600m、
住宅が並ぶ静かな通りを抜けて

源頼朝の墓は石段を上がった先にあります。


石段下の左に位置する白旗神社

狭い石段を登ると

源頼朝の墓があります。小さな石塔、周囲には誰もいません。


*鎌倉幕府初代将軍だった源頼朝は建久10年(1199年)に死去。頼朝の亡骸は彼の持仏堂に葬られた。持仏堂は正治2年(1200年)から法華堂と呼ばれ、多くの法要が営まれている。安永8年(1779年)2月には、薩摩藩主・島津重豪が現在の石塔を建てた。明治に入ると廃仏毀釈により石塔の前に在った法華堂は壊され、明治5年(1872年)、その跡に頼朝を祀る白旗神社が建てられた。なお石塔は昭和2年(1927年)に「法華堂跡(源頼朝墓)」として国のて国の史跡に指定されている。2006年(平成18年)7月28日に、隣接地にある「北条義時法華堂遺構」が史跡に追加指定され、「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」と名称変更されている。

wikipediaより引用


頼朝の墓から100mほど離れた場所は

義時法華堂跡、昨年の大河ドラマの主役であった北条義時の墓所であった法華堂跡


三浦一族のやぐら
*三浦泰村一族の供養墓、宝治元年(1247年)の宝治合戦で、北条時頼に攻められた三浦泰村、及び一族276人が源頼朝法華堂に立てこもり自害したと伝わり、その自害した三浦一族を供養するための墓所である。

wikipediaより引用

鳥居の先の石段上には
3つの近世墓

3つのやぐらが並んでいました。


島津忠久墓

島津忠久(1179〜1227)、島津家初代当主、鎌倉幕府御家人
大江広元墓

大江 広元(1148〜1225)は鎌倉時代初期にかけての貴族、源頼朝の側近、鎌倉幕府の初代別当
毛利 季光墓

毛利季光(1202〜1247)、鎌倉時代前期の武士。鎌倉幕府御家人。大江広元の四男、毛利氏祖。

法華堂跡から鎌倉宮へ向かいます。