3月10日(木)

東武アーバンパークライン(野田線)に乗り岩槻に来ました。ここは埼玉県さいたま市岩槻区

岩槻は一昨年10月以来、前回は岩槻城址公園に保存展示されている東武DRC   モハ1726を見に行きました。



駅から近い太平山芳林寺へ
門前には太田道灌の騎馬像

門が閉ざされて境内には入れませんでした。

水野書店、カフェが併設された書店では

岩槻城の御城印が販売されています。

この御城印のために岩槻に来ました。

水野書店から岩槻城があった岩槻城址公園へは1.3㎞の距離

一昨年訪れたので今回はスルー、「御城印」を購入しながら城には訪れない、やや後ろめたい?

岩槻城址には行かなかったので、城下町はめぐります。

「時の鐘」は川越が有名ですが岩槻にもあります。

住宅街の一角、目立たぬ場所に

茅葺き屋根の建物は  岩槻藩遷喬館(せんきょうかん)



以下はさいたま市のHPから引用

「岩槻藩遷喬館」は、寛政11年(1799年)に、岩槻藩に仕えていた儒者・児玉南柯(こだま なんか)が開いた私塾です。後に藩校となり、岩槻藩の武士の子弟が勉学や武芸の稽古に励みました。 明治4年(1871年)に藩校が廃止になった後は、おおむね民家として使用されていましたが、昭和14年(1939年)に埼玉県の史跡に指定されました。 平成15年(2003年)から同18年(2006年)にかけて解体修理・復原工事を行い、公開しています。 埼玉県内では唯一現存する藩校の建物です。 「遷喬館」(せんきょうかん)の名前の由来 詩経(中国最古の詩集)の「伐木」の一節、「出自幽谷 遷于喬木(幽谷より出でて 喬木に遷る)」に由来しています。 学問を欲し友を求めることを「鳥が友を求めて深い谷から高い木に飛び移ること」にたとえた内容で、学ぶ者に高い志を持つことを促す意味が込められています。 児玉南柯(こだまなんか)とは 江戸時代の後半、延享3年(1746年)に甲州の豊島家で生まれ、11歳で岩槻藩士の児玉親繁(ちかしげ)の養子になりました。 16歳のとき藩主大岡忠喜(ただよし)に仕えました。 18歳で江戸の藩邸に勤務し、以後様々な要職を歴任し、35歳の安永9年(1780年)南京船漂着事件の処理で名声を上げました。 43歳のときに職を辞し、54歳の寛政11年(1799年)に私塾・遷喬館を開設し、岩槻藩の子弟教育に情熱を注ぎました。 

開館時間 9時から16時30分まで 
休館日 月曜日(休日を除く) 休日の翌日 年末年始(12月28日から1月4日) その他特別整理期間・臨時休館日 

入館料 無料
「岩槻藩遷喬館」は一昨年の岩槻訪問時に見学したので今回は外観の撮影のみ



再び岩槻から野田線

岩槻1425発   急行  大宮行き   

に乗り
終点の大宮に来ました。1433着

東武野田線   62.2㎞全線乗車!

JR貨物大宮車両所の方を見ると

EF65が3両連なっていました。