診断書を持ち帰った私は、家から近い診療所で点滴治療を受けることになった。

通院生活そのものは何も変わらず、学校が終わった後週に3回は通院生活だった。


今でも鮮明に覚えているピンク色の点滴。

名古屋の病院とはちょっと違ってとても鮮やかだった。


3ヵ月後、名古屋の病院でこの点滴が偽装のものだと判る。

聴力の低下が進行していたのである。。。


このときに、初めて補聴器を勧められるが、私は補聴器がかっこわるいと見た目を気にしていたので頑固拒否><

私が名古屋の小学校に通っていた夏、入院してるおばさまの病院へお見舞いに自転車で叔母と従妹と一緒に行くことが何度もあった。

おばさまの死は突然で、ちょうど、私が小学校の泊まり課外学習から帰って来た時に知らされた。

老衰だったけれど、病院の入院生活も長かった・・・と思う。


葬儀で名古屋に来ていたママは、学校まで迎えに来ていた。

ママの姿を見つけた私は、この日をきっかけに母親の恋しさに毎晩枕を涙で濡らす。


叔母やいとことの生活が決して辛いものであったわけじゃない。

子供心っていうのでしょうか・・・?

どんなに虐待を受けていてもやっぱり母親というのは一人なのでしょうか?


私は、もちろんドクターの許可があってのことではあったが、点滴による治療は継続しなければならなく診断書を持って、1年の名古屋での通院生活に幕を閉じた。

おばさまの葬儀から数ヵ月後、転校して1年後のことである。


当時の担任の先生は、叔母に名古屋に残るように一生懸命言ってくれていたそうだ。

今にして思えば、このとき名古屋でずっと育っていればまた違った道を歩いていたのだろう。。と思う。

病名が判明した後、手遅れ状態が判りこのまま放置すれば全く聞こえなくなるのも時間の問題。。。


進行を止めるべくドクターの進めで名古屋の小学校へ転校し治療通院に週3回行く事になる。



当時の私にとっては、ママからの暴力から開放されるという環境が一番嬉しかった。

この暴力から逃げられる。。。それだけしか頭になかった私。


転校した学校では友だちや先生に恵まれ、聞こえないという事を伝えてもありのままに接してもらっていた。

これが当たり前のコトなのかもしれないが・・・。


一番嫌いだったのはやはり音楽の時間。

当時の担任は音楽バカで朝から帰りまでギターを鳴らし音楽に熱をあげていた。

聞こえない=音楽が聴けない楽しめないという固定観念が外れたのはこの頃。


肌で音楽を楽しむということを覚えた。

私に音楽の素晴らしさ・楽しさを教えてくれた恩師である。


学校が終わった後は、週3回は病院へ自転車で10分かけて通院。

それ以外は、友だちと同じようにそろばんへ通ったり遊んだり普通に暮らしていた。