こんばんは😀

 

一つ前に投稿した初ブログの中で北総がどうこうって話をしてて、自分で書いてて消化不良になっちゃったのでとにかく知ってること、言いたいこと、思うことを書いていきます。

 

と思ったのですが、書いてるうちにすごい勢いで脱線して文章もかなり多くなっちゃったので、分けてこの記事は千葉の成り立ちの話ってことにしようと思います。

 

まず、旧令制国の話です。現在の千葉県の範囲は3つの国に分かれていました。

言葉で説明するよりも見てもらったほうが早いと思うので画像で説明します。

(千葉県のホームページより)

下総は現在の千葉よりも茨城県側(常陸国)にせり出していたんですよね。

あと、旧令制国の地図を見るたびに思うんですが、安房はよくこの規模で一国を保っていられましたよね。

 

ちょっと脱線するのですが、ここ以外にも「上、中、下」「前、中、後」と付く旧国名があることはご存知だと思います。越前、越中、越後とか、上越、中越、下越とか。

で、それは当時日本の中心だった京都に近い順から「上、中、下」「前、中、後」とつけられていたんです。

 

え、じゃあなんでより京都に近いはずの下総が「下」なの、と思うかもしれませんが、当時の交通手段に関係があります。

 

当時は鉄道や自動車、ましてや新幹線や飛行機なんて便利なものはなかったので、移動するとき、特に長距離や重い物を運ぶときは船、すなわち水運が主流でした。

 

つまり、太平洋により早く漕ぎ出られるのはどちらかと言われれば一目瞭然ですよね。

 

今でこそしっかりとした地図がありますから違和感を感じてしまいますが、当時にしてみれば何らおかしくもなく、当然のことだったんじゃないかなあと思います。根拠は0ですがね(笑)。

 

反対にしっかりした地図があれば、例え京都へ着くのは上総からの方が早くても下総の方が上とか前になってたんじゃないかなあとか思います。日本のしっかりした地図が作られたのは、江戸も終わりに近づき始めた1821年に、伊能忠敬らが全国を歩いて測量して作った「大日本沿海輿地全図」が初めですからね。

 

そしてその伊能忠敬は我らの下総は佐原の出身です。下総唯一の誇りです。

 

 

ここまで語ればようやく北総の話に入ることができます。ということで、今回はここまでです。また次の記事でお会いしましょう(^^)/~