明日は他人の私へ。

 

ヤマシタトモコさんのマンガ、

好きは好きなんスよ。

ただ、ゆさぶられるから

体力のないときは

BL以外は読めないだけで。

『違国日記』

ようやく読みました。

 

実写映画化してるなー

アンリミで3巻まで読めるなー

と思ったら

完結したんですね。


一気読みした。

 

ええ、でね。

 

だいぶ最初のほうで、

日記を書くことをすすめてて。

そのとき

本当のことをかかなくてもいい、

ということを主人公は言われるんです。

 

主人公の朝はそれを

ウソをかいてもいい

と解釈している。

その言葉を言った当人は

あとになってそのことを指摘され

そんなこと言ったか?

となりつつも、

そうではなくて

かかなくてもいい

という意味だったんじゃないか

という。

 

あっ

と思ったんです。


あとになって、

という箇所を読んだ時に私は


そうだよなあ

ホントのことをかかなくてもいい

というのは

「かかない」ことを選択してもよい

であって

ウソをかくことの肯定ではないんだよなあ。

なんでたいがいのひとは

「ホントをかかない」

「ウソをかく」

を混同しがちなんだろう。


なんて思ったんです。


なんて思ったのに


なんでかなあ……

を掘り下げていくうち


最初の、

日記をかくといい

と言われたシーンでは


そうだよな

ウソをかいたっていいんだよ


なんて

私こそ

そう思ったのでした。


なんてこった。


こういうのって

数学かなにかでやった気がする。

対偶とかなにかそういうの。

ええ、それはここではいったん置いて。


日記に限定していうなら

たとえばこのブログは

ウソをかいたってよかろうもんでしょう。

もちろん自分しか読まないはずの日記も。

誰にもそれを

咎められるものではない。


けど

作中でも指摘されてますけど

ウソをかいたことで

実際はどうであったかが

読み返したときに

浮かび上がってしまう。


それこれを踏まえて

なにをかくか?


うそをかくのか

ホントのことをかかないのか。


どちらを選ぼうとも

それを引き受けるのは自分自身。


それでも

本当しかかいてはいけない

と思い込みがちなところを


かいてもいい

かかなくてもいい


と肩に手をおくのは

誰かがしていいのでしょう。


なにごとにも

先達はあらまほしきものなり。


ではまたいずれ。 

 ごきげんようごきげんよう。


 

この空しい人生の日々に
わたしはすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり
悪人がその悪のゆえに長らえることもある。
善人すぎるな、賢すぎるな
どうして滅びてよかろう。
悪事をすごすな、愚かすぎるな
どうして時も来ないのに死んでよかろう。

(『コヘレトの言葉』第7章第15〜17節)