明日は他人の私へ。

 

やっぱりつい読んじゃう

時間管理術とか

自己啓発系とか。

 

たまに、見かけるんですよ。

 

「時間がないというが、

 ないのではない、

 ある!」

 

うん。

その本を読んでも

そのパラダイム変換についていけず。

 

そりゃ、

時間はあるよ、24時間な。

「時間がない」というとき

多くの場合は、

「自分が満足できる使い方のできる時間がない」 

くらいの意味で言っているわけで。

 

現状、

そういう時間をもてていない、

という嘆きにたいして

言葉のうわっつらだけすくって、

 

「ある!」

て言われても。

 

ああ、ほら、

「コップに半分しか水が残っていない」

と嘆くひとにむかって、

 

「なにを言うんだ、よく見たまえ!

 コップには、まだ半分も水があるじゃないか!」

って、

言ってみたところで。

 

コップの水の量は、増えも減りもしない。

なんならちょっとは蒸発して減ってるかもしれない。

 

そういうのは、

発話者に対して

聞き手が常から尊敬の念を抱いている、

なんていう場合であれば

「そうか、そうですね!」

て、なるんでしょうけども。 

 

ああ、あと、ね。

 

自分以外の人間のお世話を

する立場にない人の時間感覚は

どうしても、

子どもの世話をする人間とは

ズレているよなあと思うのです。

 

わりと好んで

ブログやYouTubeを見ていたひとの本なだけに

なんだか片付かない思いのまま

読み終えたのでした。

 

ではまたいずれ。

ごきげんようごきげんよう。

 

 

この空しい人生の日々に
わたしはすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり
悪人がその悪のゆえに長らえることもある。
善人すぎるな、賢すぎるな
どうして滅びてよかろう。
悪事をすごすな、愚かすぎるな
どうして時も来ないのに死んでよかろう。

(『コヘレトの言葉』第7章第15〜17節)