明日は他人の私へ。

 

急にアクセス数が増えてて

なんぞと驚いたけども。

劇場版ハイキュー!

かな。

早く観にいかなくては。

谷地ちゃんスゴイんですよ。

 

そうまでして負けたくないっていう強い気持ちが理解できなくて、

問うてみたらば

「理由っている?」

なんて返されて。

 

自分のなかになかった思考、衝動を、

受け入れない、

見えないふりをするのでなく

向き合って消化していく。

 

私が谷地ちゃんのようでありたいと思うのは、

その向き合う姿勢ではなくて

ずっとそれ以前、

 

どうしたら、

自分のなかにない概念を

透明化せずに

「発見」できるのか。

 

カラーバス効果や

カクテルパーティー効果の

副次的効果として

見えていても聞こえていても

認識されない情報が必ずあるはず。

 

はず、というか、

そもそもなにもかもが見えて聞こえて

認識されてるわけじゃあないってことは

あえて言うまでもない常識かもしれません。

 

いや、どうだろうかな。

近未来設定のドラマとか

人間の目が見たものを

カメラのようにあとで再生して

リアルタイムでは気が付かなかったことを

あとで発見したりなんてあるじゃん。

あれって、

脳が認識してなければ

そもそも情報として記憶されてもおらず

意味のない何かでおおわれてるはずじゃないのかな。

 

なんの話でしたっけ。

 

ええ、谷地ちゃんのようでありたいという話。

 

答えはいまだに見つかっていません。

いや、

とっくに分かっていたのかも。

 

自分には欠けているものがある、という認識。

それ、なのではないかしらん。

 

常に、

これで完璧ということはなく、

まだ自分にとって未知の

欠けているなにかがある。

そう意識しておくことで

自分のなかにない概念に出会ったとき

見えない、聞こえない、

ということを

少しでも回避できるのではなんて思うのです。

 

ちょっといま思ったけど

最近なにかで読んで、

それはないんじゃないかって思ったことに関係がありそう。

 

死ぬときに何ひとつ後悔のない状態になるということ。

やりたいことはすべてやった。

会いたいひとに会い、成し遂げたいことはすべて成し遂げた。

 

そんな状態にたどり着けたとして、

まだ死ななかったらどうすんの?

 

明日、どうやって生きてくの?

 

まだ出会っていない、

認識していない何かがあるとは

思わんの?

 

話がとっちらかってきたので、

本日はこのへんで。

ごきげんようごきげんよう。

 

  明日ありと思ふ心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかは  親鸞