明日は他人の私へ。

ああ!

これかあ!

と膝を打ちました。

 

前回までのあらすじ

(前回までのあらすじだと?)

 

あることについてより深く学ぶため

セミナーに申し込もうとしたが

違和感があってずっとためらっている。

そんな折り、

セミナー主催者のブログで

そのことに関する本を、

主催者は私よりも全然読んでなかったことが発覚。

違和感の正体はこれかと膝を打つのであった……。

 

 

え、さて。

 

シンプルに考えれば、

 

なあんだ。

 

と、

そのセミナー申し込みページのブックマークは外して、

主催者ブログもフォローを外し、

ほかのセミナーを探すだろうってもんじゃないスか。

 

ところがね。

 

 

紹介されているのは

超越瞑想プログラムの入門講座の一件。

「新しい瞑想の高み」

というイラストは

座禅を組んだ状態で空中に浮かぶというもので

私と同じ年代なら間違いなく

どこかで見たことある絵ヅラ。

 

この怪しいプログラムの勧誘講座で、

著者とその友人は

講座を主催している若者ふたりを

ほかの参加者の前で完全論破。

いかにその内容が、

非論理的でありえないのかを指摘するのです。

 

しかし、

勧誘講座が終わったら

なんということでしょう。

プログラムの参加を希望し

頭金をはらうひとたちが長蛇の列。

 

これはいったいどうしたことか。

著者の友人が皆の前で、

このプログラムがありえない論理に基づいているものだと指摘したにもかかわらず。

 

かれらはその論理がまったく理解できなかったのだろうか?

そうではなかった、

まったく逆だった、という話。

 

その場でプログラムに申し込んだうちの数人に声をかけられ

かれらの話を聞き、

質問もされ、

著者はかれらが

著者の友人の語った論理を完璧に理解していたことを知ります。

 

それなのになぜ、

このうさんくさいプログラムに

金を払って申し込むのか?

 

かれらは問題を抱えていました。

そして、

このプログラムが解決してくれるかもと期待を抱き

講座にやってきて

論破されるのを聞きました。

 

それを理解したからこそ、

むしろ

「すぐ申し込んだ方がいいと思ったんです」

 

それはなぜか。

 

問題を解決する方法として

わらにもすがる思いでやってきた講座で

それは怪しいぞと指摘されている。

これこそ解決方法だと信じたかったのに。

このままでは、また解決方法を探してさまようことになる……。

 

……そうだ、

申し込んでしまえば、

お金を払ってしまえば

もう迷わなくてすむ、

考えなくてすむんだ……。

 

 

 

『影響力の武器』で

このくだりを読んだときは

ああ、まあ、そんなこともあるだろうねえ

くらいに思ってたんですよ。

 

しかしこれって、

まさに、私が、

参加を迷っていたセミナーの

主催者ブログでがっかりしたときに

同時に感じた感覚です。

 

えっ、この主催者、この情報を知らなかったの?

ええ……どうしよう。

だって、ずっと、

これに参加すれば、

問題の少しは解決になるかもと期待してたのに……。

なんか違和感があるからって迷ってはいたけど、

ほかに適当なのも見つからないから、

だからずっと、このセミナーに参加するかどうかで

迷っていたのに……。

また、一からこういうのを探さなければいけないのか……。

いや、もう、

いっそ申し込んでみればいいんじゃないかな……。

お金払って参加したら、

ほら、その分、元を取ろうって気持ちで、

なにか参考になる情報が聞けるかもしれないし……。

それで結局実際にがっかりしたとしても、

もう迷わなくて済むわけだし……。

 

ええ、すでに、

参加したらがっかりするだろう、

というフラグが立っているのに。

 

私はまず、

その主催者ブログをフォローするのをやめるべきなんです。

でも、まだ、フォローしたままなんです。

それで、時折、またがっかりしてるんです。

 

『影響力の武器』

ためになるけど

章ごとにまとめと設問があって

解かずに読み進むの

むずむずしちゃって

でも解けなくて

読み進まないのです。

 

ではまたいずれ。

ごきげんようごきげんよう。

 

  明日ありと思ふ心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかは  親鸞