そもそも「真面目」というのは、善なることとされているが、
果たして本当に良いことなのだろうか、とふと思う。
私たちは、学校教育で「真面目であること」を正しいとして教わってきた。
「あの人は真面目」という表現は、ちょっと融通がきかないけどね、というニュアンスは時にあっても、悪口として使われることはない。
しかし、問題は、何に対して「真面目」なのか。ということである。
真面目な人間は、(自分も含め)思考停止をしている場合が多い。
自分が考えたことを真面目にやるのではなく、
人が考えたことを真面目にやる傾向にある。
「人」つまり親、学校、会社、政府。
人が考えた枠組みの中で真面目にやることは、楽である。枠を作った「人」にとっても都合のいいことだ。
しかし果たして、それで幸せになるのだろうか、と言う話である。
人が決めた枠の中で真面目に生きることは、
自分自身の人生に対しては真面目であるとイコールではない。
しかしながら、自分に対して真面目になるということは、
慣れない人間にとっては苦痛を伴う。
なぜならば、頭と時間を使って考えて、自分で枠を作らなければならないからだ。
もちろん、人の枠の中で真面目にやることも重要。
でも、一方で、私自身はどうしたいのかを自問自答したとき、
自分に対して「真面目」でありたい。
つまり、
どんなに小さいものでもいいから、自分自身で「枠」を作っていこうと決意をするのである。