こんにちは、ウェルネス・コーディネーターのToshiです。
堀田江里さんの著書『1941:決意なき開戦』(人文書院)を読みました。
なぜ日本は、圧倒的な国力の差を知りながら、あの無謀で悲惨な戦争に突入していったのか❗
いったい誰が、どのような理由で、あの勝ち目のない戦争に日本を導いたのか❗
当時の指導者たちが「避戦」と「開戦」の間を揺れながら、太平洋戦争の開戦決定に至った紆余曲折を、膨大なリサーチに基づき克明に辿る、緊迫感バリバリの歴史ドキュメントです♪
副題に、「現代日本の起源」とあるように、本書では、“避戦”に導く複数の分岐点があったにも拘わらず、“開戦”を決定した当時の指導層の無責任な意志決定システムの中に、私たちが陥りやすい刹那的で当事者意識の欠如した集団心理と行動様式の病理があると警笛を鳴らしています。
奇しくも、今年は、5月にオバマ大統領が広島を訪問し、そして昨日、安部首相が真珠湾を訪問するというメモリアル・イヤーとなりました。
この歴史的な年に、「1941年」を総括することは、過去の出来事を包括的に受け止めるだけではなく、私たちの深層に潜む、危うい思考回路を点検する絶好のオポチュニティだと感じました
下記は、堀田江里さんが、朝日新聞のインタビューに答えている記事です。長文ですが、示唆に富んだメッセージです。
・・・・・・・
米国では、太平洋戦争はだまし討ちによって余儀なくされた「大義のための戦い」と認識されがちです。米読者に日本側の背景を伝えたいと、英語で本を出したのが3年前です。政治家や軍人の日記、回想録、政府内議事録、米公文書館の外交史料などを突き合わせ、書き進めました。
今年6月、その日本語版「1941 決意なき開戦」を刊行しました。調べるにつれ、日本は戦争を避けられる機会を次々と逃し、選択肢を狭め、ほぼ勝算のない戦いになだれ込んだ、という思いを深めました。
例えば1941年6月、ドイツがソ連と開戦したことは、日本が日独伊三国同盟から離脱する絶好の機会でした。米政府との関係修復の大きな一歩となったはずです。しかし日本はその可能性を積極的に検討せず、7月には南部仏領インドシナへの進駐を決定します。ルーズベルト米大統領は日本の撤兵と引き換えにインドシナの中立化を提案します。政府はこれを黙殺し進駐を決行、米国は「冷水を浴びせられた」と態度を硬化させます。撤退は屈辱的でも、後に来る開戦よりはるかに賢明な選択だったはずです。
日本では開戦を、軍部の独走と考える人が多いでしょう。米国の対日石油輸出禁止や米、英、中、オランダによる「ABCD包囲網」で追い詰められた結果という被害者意識も共存しています。実際は、要所要所で戦争回避とは異なる選択を続け、自ら後戻りを難しくしたのです。政府や軍部にも開戦反対をほのめかす人はいました。しかし、身を挺(てい)し戦争に歯止めをかけようとする指導者はいませんでした。
米国の工業生産能力は日本の74倍以上という政府機関の調査結果もあり、日米戦が圧倒的に不利なことは明白でした。しかし万が一に望みをかけ、打って出たのが75年前の12月でした。
メディアの妥協も見過ごせません。31年の満州事変から、新聞はこぞって軍部を支えました。自己検閲を一度始めると、軌道修正は難しいものです。
日本語版の副題は「現代日本の起源」です。開戦は多くの公式、非公式の会議を経て下されました。にもかかわらず、指導者層にことごとく当事者意識が欠けていました。
東京電力福島第一原発の事故も新国立競技場の建設も、事後処理や決定過程が75年前と酷似しています。豊洲市場の建物の下に盛り土がない問題も同じです小池百合子東京都知事は「流れの中で、空気の中で進んでいった」と説明しました。責任の所在がわからない点で似ています。
開戦の決断を取り囲む状況を「空気」「雰囲気」でよりよく説明することはできます。しかし判断ミスや勇気の欠如は、自然発生しません。責任は、あくまでも人間にあるのです。
(12/7:朝日新聞より抜粋)

堀田江里さんの著書『1941:決意なき開戦』(人文書院)を読みました。
なぜ日本は、圧倒的な国力の差を知りながら、あの無謀で悲惨な戦争に突入していったのか❗
いったい誰が、どのような理由で、あの勝ち目のない戦争に日本を導いたのか❗
当時の指導者たちが「避戦」と「開戦」の間を揺れながら、太平洋戦争の開戦決定に至った紆余曲折を、膨大なリサーチに基づき克明に辿る、緊迫感バリバリの歴史ドキュメントです♪
副題に、「現代日本の起源」とあるように、本書では、“避戦”に導く複数の分岐点があったにも拘わらず、“開戦”を決定した当時の指導層の無責任な意志決定システムの中に、私たちが陥りやすい刹那的で当事者意識の欠如した集団心理と行動様式の病理があると警笛を鳴らしています。
奇しくも、今年は、5月にオバマ大統領が広島を訪問し、そして昨日、安部首相が真珠湾を訪問するというメモリアル・イヤーとなりました。
この歴史的な年に、「1941年」を総括することは、過去の出来事を包括的に受け止めるだけではなく、私たちの深層に潜む、危うい思考回路を点検する絶好のオポチュニティだと感じました
下記は、堀田江里さんが、朝日新聞のインタビューに答えている記事です。長文ですが、示唆に富んだメッセージです。
・・・・・・・
米国では、太平洋戦争はだまし討ちによって余儀なくされた「大義のための戦い」と認識されがちです。米読者に日本側の背景を伝えたいと、英語で本を出したのが3年前です。政治家や軍人の日記、回想録、政府内議事録、米公文書館の外交史料などを突き合わせ、書き進めました。
今年6月、その日本語版「1941 決意なき開戦」を刊行しました。調べるにつれ、日本は戦争を避けられる機会を次々と逃し、選択肢を狭め、ほぼ勝算のない戦いになだれ込んだ、という思いを深めました。
例えば1941年6月、ドイツがソ連と開戦したことは、日本が日独伊三国同盟から離脱する絶好の機会でした。米政府との関係修復の大きな一歩となったはずです。しかし日本はその可能性を積極的に検討せず、7月には南部仏領インドシナへの進駐を決定します。ルーズベルト米大統領は日本の撤兵と引き換えにインドシナの中立化を提案します。政府はこれを黙殺し進駐を決行、米国は「冷水を浴びせられた」と態度を硬化させます。撤退は屈辱的でも、後に来る開戦よりはるかに賢明な選択だったはずです。
日本では開戦を、軍部の独走と考える人が多いでしょう。米国の対日石油輸出禁止や米、英、中、オランダによる「ABCD包囲網」で追い詰められた結果という被害者意識も共存しています。実際は、要所要所で戦争回避とは異なる選択を続け、自ら後戻りを難しくしたのです。政府や軍部にも開戦反対をほのめかす人はいました。しかし、身を挺(てい)し戦争に歯止めをかけようとする指導者はいませんでした。
米国の工業生産能力は日本の74倍以上という政府機関の調査結果もあり、日米戦が圧倒的に不利なことは明白でした。しかし万が一に望みをかけ、打って出たのが75年前の12月でした。
メディアの妥協も見過ごせません。31年の満州事変から、新聞はこぞって軍部を支えました。自己検閲を一度始めると、軌道修正は難しいものです。
日本語版の副題は「現代日本の起源」です。開戦は多くの公式、非公式の会議を経て下されました。にもかかわらず、指導者層にことごとく当事者意識が欠けていました。
東京電力福島第一原発の事故も新国立競技場の建設も、事後処理や決定過程が75年前と酷似しています。豊洲市場の建物の下に盛り土がない問題も同じです小池百合子東京都知事は「流れの中で、空気の中で進んでいった」と説明しました。責任の所在がわからない点で似ています。
開戦の決断を取り囲む状況を「空気」「雰囲気」でよりよく説明することはできます。しかし判断ミスや勇気の欠如は、自然発生しません。責任は、あくまでも人間にあるのです。
(12/7:朝日新聞より抜粋)
